さんかく

織伊よい

第1話 

 あなたが世間体を気にする人でよかった。家族の期待や、普通の人生を裏切ることのできない、真面目な人でよかった。

 だってそうじゃなかったら、彼女は今、私の隣にはいないから。

 薔薇色の頬の頃、あなたたちは両想いだった。



 第1話 



 寺原明菜。27歳。大学病院で研修医として働いている。今でも交友のある中高の同級生たちは、30歳になるまでは結婚や出産を、と何やら毎日忙しない。

 私も口では周りに合わせて、「そろそろ焦るよね」と言いながら、誘われるがままに合コンや婚活パーティーに参加していたけれど、本当はどうでもよかった。なぜなら、私は同性愛者だ。結婚も出産もできはしない。けれど、そのことは誰にも言えずにいる。

 私は自分の性的嗜好をきちんと理解しながらも、これまで同性の相手と付き合ったことは無かった。今よりも若い頃は、本当の自分から目を背けるように、まるで自棄のように、男と遊んでいたこともあったけれど、今はもうそれもやめた。ただ虚しいだけだった。


「明菜って美人でモテるのに、どうして誰とも付き合わないの?もしかしてレズとか!」

「違うよ。そんななわけないでしょ。私は理想が高いの」

「でもまあ、明菜なら一人でも生きていけそう。誰かに養ってもらう必要とかないもんね」


 そんな会話が繰り返される度に、私の心は掴まれたように痛む。学生時代も今も、何も変わらない。自分を偽って生きているような罪悪感。

 どうして私はこうなんだろう。このままずっとこんな人生が続いていくのだろうか。

 ……あの子は元気にしているだろうか。私とは違って、素直さも勇気も持ち合わせていた、かわいくて綺麗だった、あの子。

 もう10年も前のことなのに、私は今だに忘れられずにいる。ただひたすらに楽しかったあの日々と、最後の日のあの子の涙を。放課後のオレンジ色の教室で、白い頰を真っ赤に染めながら、私のことを好きだと言った。あの時、抱きしめれられていたら。私も好きだ、と言えていたら。今、隣で笑ってくれていたのだろうか。

 もう一度会いたい。もう自分のものにはならなくても、せめてもう一度あの笑顔が見たかった。


「明菜、合コンしよう!」

「……また?」


 金曜日の夕方。電話の向こうから、千歌は明るい声で私を誘った。

 千歌は、高校時代の同級生だ。今はアパレル関係の仕事をしている。

 高校を卒業してからも仲が良く、私の一番の親友と言えるだろう。そんな相手にさえ、本当のことを話せずにいるのだけれど。

 季節はもう秋だ。私は病院の更衣室でコートに腕を通しながら千歌の声に耳を傾ける。


「またって!当たり前でしょ。良い相手が見つかるまで、終わることは無いんだよ!私は絶対に理想の相手を見つける!」


 千歌の声高な宣言を聞きながら、私は思わず笑った。千歌はかわいい子だ。早く幸せになれるといい。

 その時ふと、電話の向こうの気配が緊張したように感じた。


「千歌?どうしの?」

「うん……あのね。明菜は、口では焦ってるなんて言うけどさ、本当は全然違うよね。私ね、本当はわかってるんだよ。明菜は合コンとか、そういうのに興味がないってこと。たしかにみんなが言うように、明菜は立派にお医者さんやってるし、一人でも生きていけるんだろうけど、それとは別に何か理由があるんだろうなって。明菜、高校卒業してからちょっと変わったよね。あの頃に何かあったんだろうなってずっと思ってた。でもね、詳しくは聞かない。明菜が話してくれるまで待つし、一生話してくれなくても別にいいよ。だけど忘れないで欲しいのは、私は何があってもずっと明菜の友達だってこと」


 千歌の静かな声を聞きながら、私は何も言えずに固まってしまっていた。

 いつも元気で明るい千歌。人の気持ちの機微には少し鈍感そうで、でもそんなところが気安くて落ち着く、なんて思っていたのに。私は今まで千歌の何を見ていたのだろう。


「千歌、私……」

「だからいいって、無理に話さなくて。ただ私が言っておきたかっただけだから。でも電話で話すようなことでもなかったね。ごめん。まあとにかく、私の理想の相手探しには、これからも引き続き付き合ってもらうから!合コンの日、予定空けといてね!」


 そう言うと、あっという間に電話は切れてしまった。

 私は決して不幸では無いのだ。



 合コン当日。結局その日、千歌は理想の相手を見つけることはできなかった。

 お洒落な造りのテーブルには、私と千歌の他に2人の女の子が座っていた。男性陣も同じく4人。千歌は最初からずっと、乗り気で無い様子だった。いつまでもダラダラしていても仕方ないからと、幹事の男性に断って、先に2人で抜けてきたのだ。


「なんかすっごい微妙だった。こんなにピンとこなかったのも久しぶりっていうくらい。私本当に30までに結婚出来るのかな。もう28なのに!不安しかないよ。明菜はいいよね、まだ27歳で若くて!」

「もう、何言ってるの。1月が来たら28だよ。あっという間だよ」

「でも早生まれっていいよね。羨ましい。私なんて4月生まれだもん。誰よりも早く年をとっていくよ」


 そう言いながら千歌は、不安だ不安だと妙なリズムの歌を作って口ずさんでいる。

 千歌はあの電話で言った通り、何か聞いてくるようなことはなかった。何もなかったかのようにいつも通りだ。そんな千歌の優しさに、私はいつも甘やかされているのだろう。


「今日は残念だったけどさ、きっと次はいい人が見つかるよ。また誘ってよ、付き合うから。今日は飲もう!」

「やったー!飲もう飲もう!もう明菜大好き。いっそ明菜と結婚したいよ〜」

「ふふ、無理だよ。法律的に」

「だよね〜。日本は同性じゃあ結婚できないもんね」


 ダラダラと話しながら夕暮れの道を歩いていた。秋の冷たい風が2人の間を吹き抜けていく。

 千歌は合コンの帰り道や、付き合っていた人と別れた時に、明菜と結婚したい、とよく口にする。これはもう昔からずっとで、口癖のようなものだと思う。だから、今更ドキドキするようなこともない。それでも少し、罪悪感で胸は痛む。


「同性と言えばさ、七海と夏希、覚えてる?」


 その名前を聞いた瞬間、心臓がドクンと音を立てた。

 七海。工藤七海。忘れるわけがない。高校時代、私の心の中心にはいつも彼女がいたのだから。たった2年の短いあの時間を、私は今も引きずっているのだから。


「明菜?大丈夫?」


 思わず立ち止まっていた。

 千歌の心配そうな顔が覗き込んできて、はっと意識を戻す。


「あ、うん。大丈夫、大丈夫。七海と夏希ね、覚えてるよ。書道部で一緒だった」


 工藤七海、水野夏希、遠藤千歌、それから私。4人はいつも一緒にいた。七海と夏希は一年生で、千歌と私は二年生。同じ書道部に所属していた。

 部とはいっても、顧問もまともに顔を出さないような緩い活動だった。それでも私たちは、毎日のように放課後の教室に集まり、筆を片手におしゃべりをしていた。部活のない日は、ファミレスや喫茶店に行くこともあった。

 とても楽しい毎日だった。私たちが三年の夏になるまでは。


「あの二人、もう長いこと付き合ってるよね。最初聞いた時はびっくりしたけど!」

「……そういえば付き合ってるとか言ってたね」

「あー、明菜はもう全然会ってないのか、あの二人とは。十年も前のことだし、あまり興味ないか」

「……そうだね。もう昔のことだし」

「まあそうだよね。私はちょくちょく会ってるんだけどね。あの二人、いつ会ってもすごく幸せそうなんだよ。二人のこと見てるとさ、女同士も悪くないよなーって結構本気で思うんだよね」


 そう言って、千歌は笑う。


「女同士もいろいろ大変そうだけどね。それよりどこで飲む?」


 私は聞いていることができなくて、話題を変えた。



 私たちは近くの大衆居酒屋に入ることにした。思いきり飲みたいからという千歌の希望だった。

 まだ明るい時間帯のせいか、席に人はまばらだった。襖の向こうの部屋では同窓会でも開かれているのか、賑やかな若い声が聞こえてきていた。


「混んでないじゃん。ラッキー」


 千歌は嬉しそうにそう言うと四人がけの広めの机を選んで座った。私も向かい合うように座って、持っていたバッグを隣の椅子に置いた。それから店内をくるりと眺めた。普段一人の時はこういう店にはあまり入らないから、なんだか新鮮な感じがした。


「私さっきの店でほとんど食べなかったから結構お腹減ってるんだよね。いろいろ頼んじゃってもいい?」


 メニューをペラペラと捲りながら千歌がたずねる。


「いいよ。千歌が好きなものを頼んで。今日は私のおごりってことで。残念会だね」

「もう〜明菜は優しすぎるよ。ありがとう」


 千歌はそう言って笑うと、さっそく店員を呼んで注文を始めた。

 そのとき、襖が開いて奥の部屋の楽しげな声が俄かに大きく漏れ聞こえた。思わずそちらに目を向けると、中から二人の女性が出てくるところだった。

 まだ若い。一人は、肩までの短い髪を暗めのブラウンに染めている。いや、もしかしたらあれは地毛かもしれない。華奢な体に細身のパンツと薄手のセーターが似合っている。

 そしてもう一人は……。

 心臓が、止まるかと思った。それは七海だった。

 十年という長い時間は、彼女を美しい女性へと変えていた。あの頃はまだ華奢で、子供の域を出ていなかった薄い胸元も、今ではふっくらとして、女性らしい柔らかさを服の上からでも感じさせた。七海がコンプレックスだと言って嫌がっていた、ぷくぷくとして柔らかだった頰はすっきりとし、綺麗な輪郭を描いている。けれど、小さな顔に収まる大きな黒い瞳と赤い唇はあの頃のままだ。黒色のワンピースに、白い肌がよく映えている。

 私は目を離すことができなかった。

 七海の隣にぴたりと寄り添うあの女性は夏希だろう。記憶を辿ると、夏希は十年前とほとんど変わらないように見えた。あの二人が、今は恋人同士なのだ。なんだか信じられない。

 二人はこちらには気づいていないようだった。そのまま気づかないでほしい。気づいて私を見てほしい。思考がまとまらない。


「明菜ー?明菜ってば!大丈夫?顔固まってるよ。もしかして体調悪い?」

「……い、いや。大丈夫」


 答える声は微かに震えていた。

 千歌は心配そうに首を傾ける。そして、今だに逸らせずにいた私の視線を辿るように、顔を背後へと向けた。


「あれ、七海と夏希じゃん!」


 千歌の明るい声が店内へと響く。彼女の美点だと思っていたはずのその声を、今はかき消してしまいたかった。まだ、心の準備ができていないのに。そんな私の心を知る由もなく、七海と夏希はこちらを振り向いた。

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