第3話 ジョブチェンジ①
テーブルの脇に座った。冷たいフローリングの感触が直に膝に伝わる。僕はこれからギロチンにかけられる囚人のように、正座したまま体の中で反響する感情を観察していた。外に意識を向けることすら怖かった。
戸山さんがガラスのコップに注いだ麦茶を手渡してきた。この部屋には盆やトレーと呼ばれるものはないようだ。文句なんて言えるわけがない。緊張で尿意を感じるけれど、トイレを借りることさえも憚られてしまう。
何か具体的な、恐怖を感じる理由があるわけではない。それなのに、恐ろしい。何が恐ろしいのかがわからない。理由のない恐怖は、一番怖い。
戸山さんはテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。
「意外と勘が良いんだね。どう切り出せばいいか悩んでたんだけど、無駄な時間だったか」
「あの、その前に、僕はここから生きて帰れるんですか?」
殺されるかもしれない、というのは大袈裟な心配かもしれないけれど、そこがはっきりしていればいくらか安心できる。笑われるかもしれないと思いつつも、最初に聞いておきたかった。
しかし、
「ううん。君の、烏宮くんの人生は今日で終わる」
返ってきた答えは絶望的なものだった。戸山さんは笑っているが、それは冗談だと笑い飛ばしているのではない。僕の反応を楽しんでいるかのような、そんな笑みだ。
「僕を、殺すということですか?」
「それは君次第かな」
意味不明だ。殺されないかもしれないが、確実に死ぬ。まさか僕が今日自殺でもするというのか。
「私は君が死ぬとは言ってないよ。君は今夜、吸血鬼になる。断るなら死んでもらうけど」
「吸血鬼?」
予想外のワードだった。
「そう。具体的には、私の眷属になってもらう。無理矢理眷属にすることもできるんだけど、そんな趣味はないから君が嫌だというのなら吸血鬼にはせずに殺してあげるよ」
殺してあげる、とはずいぶん身勝手な言い草だ。
「ということは、戸山さんは吸血鬼なんですか?」
「もちろん。証拠を見せてあげよう」
適度に豊満な胸を張ってそう言うと、戸山さんは懐からナイフを引き抜いて、その胸の中心に突き立てた。
鮮血が飛び散る。僕の顔に、胸に、腕に、鮮やかな朱。
間違いなく、心臓か大きな血管を突いている。最初に飛散した後は、血は周期的に溢れ、服の上に重力に沿って川を造っている。紺色のワンピースがより一層どす黒く染まる。今すぐ救急車を呼んでも助かるかどうか。
それなのに、いや話の流れからするとむしろ順当な流れだが、戸山さんは何食わぬ顔で立ち上がった。体の奥深くまで突き刺さったはずのナイフが独りでに落ちる。ビュッっと音を立てて、幾ばくかの血液がその後を追った。
赤と銀が蜃気楼のように霞む。僕の顔にかかった血液が、冷たいまま沸騰していたからだ。
三十秒の無音。僕が現実を受け入れるには不十分な、けれど飛び散った血がその痕跡を抹消するには十分すぎる時間。
ほんの数瞬前の嘘のような光景の名残は、今や彼女の服にできた穴だけ。その奥には白い肌が覗いていた。
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