第8話 寝る子は育つ
雪の現実離れの生い立ちが、ゆっくりとわたしに浸透して心がじくじく痛む。雪はもっと痛かったのに、わたしが泣いてどうするんだ。
「ごめん、泣いちゃった。辛かったのは雪なのにね」
「ありがとう。重いってわかってたのに受け止めてくれて。そういう愚かさがわたしは大好きだよ」
抱きしめながら雪の背中を撫でる。
雪も泣いてほしかった。今まで泣けてたのかな。泣き疲れた果てに強くなったのかな。だとしたら雪は痛みを感じにくくなっているかもしれない。
今度はわたしから口付けをする。雪みたいに情熱的にはできないけれど愛情は負けないくらい込めた。
けれど、どうしても『あの子』が頭を過ってしまう。雪だけを見たいのに、わたしはあの子の影を生んでしまう。
もしもあの子がわたしだけを見てくれていたらどうなっていたんだろうって、想像して、わたしはずっとあの子の影に縛られている。
「……雪のことだけを見てないところも?」
「……うん。嫉妬しちゃうけどね。キスの最中に思い出しちゃうなんて、
なんでわかるのと言いかけてやめた。雪には全部お見通しみたいだった。
わたしの幼馴染。その名前は、
話しかけても彼氏と用があるからと言ってわたしを何度も避けたのに、憎悪と嫉妬と羨望でぶん殴ってやりたいくらいムカつくのに、それでも想ってしまうのは茜と過ごした日々の記憶が本当に楽しかったから。
茜は偏差値が高い進学校に入学したことは知っている。
だけどその後どうしているかは中学を卒業してから何もわからない。中学校の頃の友達とは薄っぺらい関係しか作れなかったから高校に入ってから誰とも出会っていないし、情報は本当に何も無いのだ。わたしの母が知っているかもしれないけれど、これはわたしの問題だからわたしが解決したい。
だから、解決するにはわたしが茜の家に行くしかないのだ。
「わたし馬鹿だからさ。避けられても離れられないみたい。その子はね、茜って名前なんだ。背が高くて賢くて優しいところが雪に似てる」
「……光ちゃんはどうしたい? 茜ちゃんに告白するつもり?」
「告白か……してやろうかな。『大好きだった』って」
今のわたしは雪が大好きだ。雪はわたしが突っぱねても諦めずに好きでいてくれたから。
それにしても茜の態度の変化はあまりにも突然過ぎた。彼氏に夢中になってわたしのことがどうでもよくなったのだと思っていたけれど、小学二年生からの付き合いだったのにそんなに簡単に友情は崩壊するのだろうか。わたしがなにかやらかして、茜に嫌われたのだろうか。そもそも茜は『志望校、合格したから』とわたしに言いに来たのだ。わたしのことが本当にどうでもいいならそんなことを報告する意味はない。なんだろう、すごく大事なことを見落としている気がする。
「それで光ちゃんの心が晴れるなら嫉妬しちゃうけれど私は力になるよ。だから、もう一度、私にキスして」
その顔は、わたしと同じ15歳の顔だった。頷いて、今度は茜を思い出さないように雪の柔らかい頬に両手を添える。
じっと雪を見つめると、うっとりした顔で瞳を閉じて長い睫毛を下ろす。暗闇に咲いた真紅の花にそっとキスをする。
雪の匂いがする。あったかくて眠ってしまいそうになるくらい優しい匂いだ。わたしの背中に手を回した雪がわたしを引っ張って重力に沿うように雪の上に乗っかる。あー、今倒れたらだめだ。
「寝る時間にはまだ早いし最大限いちゃいちゃしようか……え、寝た?」
睡魔がわたしの後頭部をぶん殴って夢の世界に落としてきた。今日は色々なことが起きたせいで、ものすごく疲れたから睡魔だって早く眠りたいのだろう。ごめんね雪。またお泊まりしようね……。
***
「あれ」
朝起きると、わたしはベッドで眠っていた。でも、雪が居なかった。用意した布団が綺麗に折り畳まれて部屋の中心に置いてある。その上に、置き手紙があった。
『おはよう。目が覚めたみたいだね。赤ちゃんみたいに急に寝落ちしたから驚いたよ。あ、キウイフルーツは光ちゃんのために残してあるから忘れずに食べてね。お母さんとお父さんに挨拶をして私は先に家を出るよ。制服が乾いていなくて予備の制服に着替えなくちゃいけないから。私は今、走って帰宅中のはずだけど学校には遅刻するだろうね。電車にも乗らないといけないし。でも、私の勘だと光ちゃんよりは先に学校に着いてしまうかな。だから玄関で光ちゃんを待ってるね。光ちゃんが大好きな彼女より』
「玄関で待ってるってことはわたしの遅刻が決定事項じゃん!」
光ちゃんが大好きな彼女はわたしを起こしてくれなかったらしい。先生に怒られるって知っているのに。雪め……。手紙に書いてある『彼女』という文字に照れつつ、ばたばたと自室を慌ただしい効果音を出しながら飛び出る。階段もばたばた蹴っ飛ばして一階に降りる。テーブルを見る。
『雪ちゃん先に出ちゃったわよ。キウイフルーツ食べさせてあげたかったのに断られちゃった〜(ぴえん)。瑞々しくて栄養満点のフルーツなのにね〜。そういえば光ちゃん、黄色と緑色のキウイフルーツがあるけれどなんでかわかる? お母さんもお父さんも全然わからないのよ〜(ぱおん)。母、父より♡』
「どうでも良いわ! こんな置き手紙書いてる暇があったら起こしてよ! また遅刻確定なんだよ!」
ぐちゃぐちゃに破り捨ててテレビを点けると八時五十分だった。はぁぁぁぁぁ。と深いため息をついて適当に朝ごはんを食べる。キウイも忘れずに。
お弁当は用意してくれているのはありがたいな、なんて感謝しながら朝支度終える。その最中、雪の持ち物がどこにもなくて少し怖くなった。いや、怖いというより寂しくなった。わたしの制服は雪のレインコートが守ってくれたからほとんど濡れていない。そのレインコートも持って帰ったみたいだ。
リュックを背負い、靴を履いて、玄関の扉を開く。
そこには豪雨の痕跡が一つも残っていない、からからの青い空が広がっていた。
自転車に乗ろうとして気づく、サドルが高いままだ。雪の痕跡は、ここにあった。思わずサドルを撫でる。変質者みたいだなと自嘲して、くすくす笑う。
サドルの位置をわたしの身長に合わせてハンドルをぐっと握って自転車に跨る。
ペダルをぐんと踏んで勢いをつける。
コンクリートを転がる車輪の音が速くなる。
沿道を突風の如く通り抜ける。
青い紫陽花を揺らして、六月の湿気も吹き飛ぶくらいにペダルを速く漕いだ。
自転車置き場に自転車を停めてじんわり汗ばんだ肌をハンカチで拭く。
玄関に歩いて行くとブレザーを着た金色の髪の王子様がわたしに向かって微笑んだ。
「雪! なんで起こしてくれなかったの!」
若干遠くから叫んでみると雪がこちらに向かって来た。麗しい風貌と威厳のある立ち姿から、まるで雪が荘厳なお城から出て来たような錯覚を起こす。雪は学校の玄関さえも変えてしまう天才だった。
「光ちゃんの眠る姿が可愛過ぎたから起こさなかったんだよ。横向きで幸せそうに寝息を立てて掛け布団を両手でしっかり握ってる可愛い人を叩き起こすなんて罪深い行為だよ。たとえ、光ちゃんが遅刻して先生に怒られることになったとしても私には眠りを妨げることはできなかった。だって! あまりにも可愛いだもん! 起こすなんて罪深い行為極まりないんだよ!」
「わたしが怒られることに罪悪感は感じないんだね!」
「うん。光ちゃんがアラームを事前にセットしていたら遅刻せずに済んだでしょ。それに、私にとっては光ちゃんが先生に怒られる光景はとても面白く感じるからね」
「サディストめ!」
雪はわたしの失敗を心底面白がっている。悔しい。でも、雪が楽しそうならわたしは愚か者のままでいい。
けれど、わたしは変わる。雪を誰よりも近くで悲しみから守れる存在になりたい。そのためには悲しみを溢さないように受け止める強さが必要だった。
だからわたしは茜ともう一度向き合う。どんなに拒絶されても仲直りしないとわたしは雪だけを見つめられない。
どんなに残酷な結末でも、茜との物語には区切りをつけないといけなかった。
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