『「一緒に来てほしい」──その一言が、私の心をほどいた』 ──報われなかった私が、初めて救われた日

なぎさ ほのか

第1話 「“見てくれる人なんていない”と思ってた夜に」

――「頑張り屋さんは、損をする」。


そう言われて、何度もうなずいた。


派遣という働き方を選んでから、私はずっと“見えない人”だった。

毎日同じように働いて、誰にも名を呼ばれず、評価もされない。

それでも、仕事はきっちりやる。それだけが、自分の心を守る唯一の方法だった。


けれど今朝――

満員電車の窓に映った自分の顔は、どこかぼんやりと疲れて見えた。

眉間に力が入り、口元は引きつっている。それは、自分でも見慣れない顔だった。


(今日からは、きっと変われる)


そう願いながら、私は北條総合商事のビルの前に立った。


都内でも屈指の大手企業。テレビCMも打っている、誰もが知る会社。

目の前にそびえ立つその本社ビルは、まるでひとつの都市のように整っていた。


広々としたエントランスには、磨き上げられた大理石の床が続き、

まっすぐに伸びた観葉植物が整然と並ぶ。

社員たちは落ち着いた足取りで行き交い、制服を着た受付スタッフが笑顔で案内を続けていた。


まるで映画のセットの中に紛れ込んだようだった。

けれど、そんな中でも私の歩幅は変わらなかった。

誰かに見られていなくてもいい。ただ、自分が納得できる仕事をしたい――それだけだった。


初日。

ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車の中で、私は何度も心の中でつぶやいていた。


(今日くらい、ちゃんと見てもらえるといいな)


* * * * *


営業企画部のフロアに足を踏み入れた瞬間、私は“歓迎”という言葉を忘れた。


「白石美咲です。本日から——」

名乗ろうとした声は、空調の音とキーボードの打鍵音にあっけなくかき消された。


中年の男性社員がちらりとこちらを見て、「あそこ、空いてるから」とだけ言い、すぐに画面へと視線を戻す。


誰も名前を繰り返さない。

誰も「よろしく」とは言わない。

用意されていたのは、机と椅子だけだった。


指定された席に座り、私は静かに深呼吸をした。

気を取り直し、周囲をゆっくりと観察する。


白く整列されたデスク。無機質な仕切り。

多くの社員はスマホをいじり、会話もほとんどない。

かろうじて笑い声が聞こえたのは、壁にもたれて話していた女性社員たちだけ。


あとは、ただ静かに時間が流れていた。


午前中に与えられた仕事は、廃棄資料の整理。

書類保管庫の奥に積み上がった古いファイルは、ラベルも剥がれ、何が何だかわからないまま埃をかぶっていた。


私は一つずつファイルを取り出し、ホコリを拭い、中身を確認していった。

必要なものは分け、不要なものはシュレッダーへ。

黙々と作業を続ける私に、誰も目を向けようとはしなかった。


それでも、私は――きっちりやった。


部署ごとに色分けをし、ファイルの背表紙に小さなラベルを貼った。

引き出しの奥から出てきた名刺ケースも、五十音順に並べ直して、そっと元の場所に戻した。


誰にも頼まれていない。それでも、

「ここまでやらないと気持ち悪い」と、自然と体が動いていた。


――「あの子、丁寧すぎない?」


どこかから聞こえた声。

皮肉なのか本音なのか分からなかったけれど、私は気にしなかった。


むしろ、その視線があることで、

自分が「ここに存在している」と、確認できた気がした。


* * * * *


午後一時過ぎ。昼休みが終わったばかりの頃。


隣のデスクの若手男性社員が、無言で空のペットボトルを机に置いた。

それから立ち上がり、どこかへ行ってしまった。


ペットボトルは視界の隅で転がり、誰も気に留める様子はなかった。

ゴミ箱はすぐそばにある。それでも、誰も手を伸ばさない。


(……捨てないの?)


私は立ち上がり、そっと手に取って、それをゴミ箱へ入れた。


ただ、それだけだった。

誰かに見てほしかったわけじゃない。

ただ、自分の目に入ったから――それだけだった。


「そういうの、やめといた方がいいよ」


隣の女性社員が、唐突に話しかけてきた。

こちらを見ずに、口元だけで呟くように言う。


「この部署、頑張ると逆に煙たがられるから。見て見ぬふりするのが、ここのルールなんだよ」


私は、かすかに笑った。

どこか苦笑に近い笑みだったかもしれない。


「でも、やらないと気持ち悪くて」


誰かに褒められなくてもいい。

評価されなくても、文句を言われても、それでも――


ただ、自分が納得できる働き方をしたい。

それが、私にとっての唯一のルールだった。


* * * * *


午後五時少し前。

オフィスの空気が、少しずつ緩みはじめていた。

誰かがそっとジャケットを羽織り、別の誰かがキーボードを打つ手を止める。

“定時”という言葉が、まだ誰にも口にされないまま、空気だけがそれを告げていた。


そんなときだった。


「君、ちょっと」


背後から低く落ち着いた声がして、思わず肩が跳ねた。

振り向くと、背の高い男性が静かにこちらを見下ろしていた。


営業企画部の課長、神谷湊。

背筋の伸びたスーツ姿、感情を表に出さない表情。

“冷徹課長”――そう噂される人だった。


「このファイル、君がやったのか?」


彼の手には、私が色分けして整理した資料があった。

整然と並んだ書類。ラベルの色も、インデックスも、自分で決めた基準で丁寧に貼ったもの。


「……はい。分類して、不要なものは破棄しました」


返事をしながら、自分の声がわずかに揺れているのが分かった。

正直、少しだけ緊張していた。

何か間違っていたのだろうか――そんな不安がよぎる。


けれど神谷課長は、わずかにうなずいた。


「几帳面だな。……助かる」


それだけ言って、彼はくるりと背を向け、そのまま静かに歩き去っていった。

足音も立てずに、すっと空気の中へと溶けていくようだった。


たった数秒のやりとり。

褒め言葉でも、労いでもない。


でも――

胸の奥に、小さな熱がふわりと灯った気がした。


“助かる”――

その一言が、ずっと誰にも呼ばれなかった私の存在を、確かにそこに置いてくれた。

今の自分がしたことを、ちゃんと見て、判断して、言葉にしてくれた。


それだけで、なぜだろう。

心の奥で何かが、そっと救われたような気がした。


* * * * *


帰り道。

夕暮れに染まりはじめた空の下で、ビルの窓ガラスが淡い橙色を反射していた。


高層ビルの壁面ににじむ光は、まるで今日一日の私の疲れと、どこかで灯った小さな希望を映しているようだった。


この街のどこかで、誰かが誰かを“ちゃんと見ている”。


そんな当たり前のことが、今日ほど胸に沁みた日はなかった。


電車に揺られながら、スマホの黒い画面に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。


疲れているはずなのに、そこにはどこか凛とした表情があった。

少しだけ背筋が伸びていて、目元にうっすらと力が戻っている。

誰にも気づかれなくても、自分には分かる――今日は、確かに“何かが違った”。


昔の私は、評価されなければ意味がないと思っていた。

誰かに認められないなら、頑張っても仕方ない。

だから、見られていないと感じると、すぐに心が折れてしまった。


でも、今日は違う。


たったひとりが――「助かる」と言ってくれた。


その言葉が、思っていた以上に心に響いていた。

きっと、心のどこかでずっと、誰かに“ちゃんと見てほしい”と思っていたのだ。


あの冷徹だと噂される神谷課長の目に、自分はどう映っていたのだろう。

几帳面なだけの派遣社員? 便利な作業要員?

――それでも、いい。


私の働きぶりを、確かに見てくれた人がいた。

そのことが、ただ静かに、でも深く、胸の奥で光を放っていた。


コンビニの前を通り過ぎると、店内の明かりが妙に眩しく感じられた。

ふと足を止めて、温かい缶コーヒーをひとつ買う。


缶を両手で包み込むように持ち、ゆっくりと家までの道を歩いた。

夜風が頬に触れるたびに、少しずつ、心の緊張がほどけていくのを感じた。


マンションの部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、しんとした静けさが押し寄せた。

狭いワンルーム。

生活感のあるキッチンと、よく使い込まれた電子レンジ。

冷蔵庫の上には、昨日買ったままの水のボトルがひとつ。


私はソファに座り、缶コーヒーをひとくち口に含んだ。

ほんのりとした甘さが、じんわりと喉を通っていく。


ため息は、安堵のようでいて、少しだけ満ち足りていた。


今日も、名前を呼ばれることはなかった。

誰からも“ありがとう”と言われることもなかった。

それでも――


私の中には、確かに変化があった。


“誰かに見られる”ということが、こんなにも力になるなんて。

思いもよらなかった。


ずっと私は、自分を守るために、無意識のうちに壁を作っていたのかもしれない。

「どうせまた裏切られる」「頑張っても意味がない」――

そんな言葉を心の奥で繰り返しながら、生きてきた。


けれど、今日。その壁の一部が、音もなく崩れた気がした。


私はまだ――誰かを信じたいと思っているのかもしれない。


缶コーヒーの甘さが、今夜だけは、やけに沁みた。


「また明日も、ちゃんと働こう」


誰に向けた言葉でもない。

でも確かに、自分自身に向けた、小さな宣言だった。

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