第2話 誰かに“ちゃんと”見られること
――「ちゃんと見てくれる人なんて、いない」。
昨日までは、本気でそう思っていた。
誰も、自分のことなんて気に留めていない。頑張っても、気づかれもしない。
ずっと、そんな日々だった。
けれど今朝、その言葉がほんの少しだけ、違って聞こえた。
ふとした拍子に、胸の奥がわずかに揺れる。
まるで、見えなかった何かに、そっと光が射しこんだように。
もしかしたら、この場所には――
私のことを、ちゃんと見てくれる人がいるのかもしれない。
* * * * *
目覚ましが鳴るよりも前に、まぶたがふと開いた。
寝起きとは思えないほど、頭はすっきりしていて、心が静かだった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、今日はなぜか、やわらかく感じられる。
同じ部屋、同じ景色のはずなのに、色合いが微かに違って見えるのは、きっと気のせいじゃない。
身支度をする手は自然と動いていたけれど、頭の中ではずっと、昨日の神谷課長の一言が繰り返されていた。
「几帳面だな。……助かる」
それは、ごく短くて、当たり障りのない言葉。
けれど、その中には、自分の仕事ぶりを“ちゃんと見てくれていた”という確かな実感があった。
誰かに認められることが、これほど心を温かくするなんて――思いもしなかった。
顔を洗い、スーツに袖を通し、鏡の前でそっと息を吸い込む。
そのとき、不意に唇がゆるんで、小さく微笑んでいた。
昨日までとは違う、自分に出会えた気がしていた。
通勤電車の混雑は、相変わらず肩と肩が触れ合うほどだったけれど、
つり革を握る指先に、今日は少しだけ力がこもっていた。
「今日も、ちゃんと頑張ろう」
誰に聞かせるでもないその言葉を、心の中で何度も繰り返す。
それだけで、胸の奥が少しずつ、凛と引き締まっていく気がした。
* * * * *
北條総合商事の本社ビルは、当然ながら昨日と変わらずそこにそびえていた。
だけど、自分の中には、確かに何かが芽生えていた。
営業企画部のフロアに足を踏み入れれば、周囲の空気はいつも通り冷たい。
挨拶をしても返ってこないこともある。
それでも、自席に向かう足取りは、昨日よりずっと自然で、重たさがなかった。
デスクの上に並べられた資料ファイル。
昨日、何度も確認してまとめたものたち。
その整った光景を見つめながら、心の奥に小さな確信が灯る。
「私は、ちゃんとやった」――そう思えた。
朝のミーティング。
私はいつも通り、部屋の隅の席に座り、メモ帳を広げた。
今日は、議事録を取る役目を任された。
ほんの小さな仕事。
だけど、こうして“任される”ことが、実は自分にとっては初めてだった。
それだけで、少し胸が熱くなる。
神谷課長の声が、ふいに空気を切り裂くように響いたのは、その直後だった。
若手社員が見込み売上の報告をしていたが、曖昧な言葉が並び、明確な数値も根拠も示されない。
重く、微妙な沈黙が部屋を包む中、神谷課長はゆっくりと顔を上げた。
「不確定な数字で提案するな。現場を見て、根拠を示せ」
静かなのに、鋭く胸を突く声。
その言葉に宿っていたのは、怒りでも苛立ちでもなく、確固たる“責任”の重みだった。
神谷課長は、いつも変わらない。
誰に対しても感情に流されず、ただ正確に、誠実に向き合う。
だからこそ、あの人の言葉には信頼がある。
あんなふうに、自分も誰かに向き合えたら。
そんな人の目に、自分の小さな努力も、いつか映る日が来たなら――
そう思わせてくれるだけの、力があった。
(この人に、自分の働きぶりを見てほしい)
それはただの憧れじゃない。
正当に評価されたいという、切実でまっすぐな思いだった。
気づけば、それが胸の奥で、静かに育ちはじめていた。
* * * * *
昼休みが終わろうとしていた頃、パソコンに向かっていた私のもとに、人影が近づいてきた。
「白石さん、ちょっといい?」
顔を上げると、総務の中原千鶴さんが、手にUSBメモリを持って立っていた。
いつもの柔らかな笑みを浮かべながら、机に肘をかけるようにして視線を合わせてくる。
「この間の議事録、すごく丁寧だったって評判良くて。今日の分もお願いできるかな?」
「はい、もちろんです」
ほんの短いやりとり。でも、そのやさしい信頼の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。
まるで、自分の存在がここに“ちゃんとある”と認められたようで。
静かな嬉しさが、心の中にふわりと広がっていく。
「こういう仕事、好き?」
不意に向けられた問いに、一瞬言葉を探した。
けれど、自分の中から出てきた答えは、迷いのないものだった。
「……はい。地味な作業ですけど、誰かの役に立てているなら、それだけでやりがいがあります」
言いながら、自然と背筋が伸びていた。
「ふふ、白石さんらしいね。じゃあ、任せたわ」
中原さんは、目元に柔らかいしわを浮かべて微笑み、ひらひらと手を振りながら去っていった。
その背中を見送りながら、私はUSBを受け取って、パソコンの前に向き直る。
録音ファイルを再生し、昨日の手順を思い出しながら、ひとつひとつ言葉を拾っていく。
誰が、どんな表情で、どんな声色で話していたのか――
文字に起こすたび、その場の空気まで思い出される気がした。
キーボードを叩く指先に、リズムが宿っていく。
無心でその作業に没頭していると、不思議と心が落ち着いていった。
誰に褒められなくても、この仕事は確かに“誰かの助け”になっている。
そして今、この場所で働いている自分自身も、
たしかに――ここに、いていいんだ。
そんな実感が、そっと胸を満たしていった。
* * * * *
夕方。
蛍光灯の光が少し黄味を帯びはじめた頃、私は保管庫で資料整理の手伝いをしていた。
狭いスペースの中、背伸びして古いファイルに手を伸ばしていたとき、ふと一冊のラベルに目が留まる。
「営業報告書」と書かれているが、どうも違和感があった。
手に取って中を確認すると、内容が古く、他のファイルと重複しているものばかりだった。
(これ……処分対象のものかも?)
念のため確認しようと、振り返ったそのとき――
「派遣があんな資料触っていいの?」
背中に刺さるような声が飛んできた。
驚いて目を向けると、村井梨花さんが立っていた。
その隣には、彼女の取り巻きのような女性社員が一人。
ふたりとも笑ってはいたが、その笑みはどこか試すようで、張りつめた空気をまとっていた。
「そういうのは正社員の業務でしょ」
遠回しな言い方。でも、その視線はあからさまに私を値踏みしていた。
笑顔の仮面の奥に潜む敵意が、はっきりと伝わってくる。
「すみません、シュレッダーに回す前に確認しておこうと思って……」
丁寧に返したつもりだった。
けれど――
「へぇ〜、そんな“気遣い”もできるんだ?」
その言葉は、乾いた空気の中に皮肉の棘を散らしていた。
どれだけ誠実に応じても、その壁はびくともしない。
それどころか、静かに突き放すような言葉の刃が、じわじわと胸に刺さってくる。
……そんなときだった。
「そのファイル、私が指示したものだ」
低く、落ち着いた声が、その空気を断ち切るように割って入った。
振り返ると、神谷課長がすぐ後ろに立っていた。
まるで最初からそこにいたかのような自然さで、私たちの間に歩み寄ってくる。
「ラベル更新の連絡が漏れていた。彼女の判断は正しい」
その一言に、村井さんの目が一瞬見開かれた。
けれどすぐに表情を戻し、「そうですか」とだけ返して、何事もなかったようにその場を離れた。
……だが私は、見逃さなかった。
村井さんの視線。
その奥に宿っていたのは、私に対する苛立ちだけではなかった。
神谷課長を見つめる目に、言葉にできない何かが混じっていた。
強がるような、誤魔化すような、でも確かに揺れている何か。
胸の奥に、静かに緊張が走った。
それは、今まで気づかずにいた“別の空気”の存在を示すサインだった。
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