誰かの特別になりたい

柴野日向(ふあ)

1章 彼方

1

 薄暗くかび臭く埃っぽい部屋の中、人影は彼方かなたの正面に佇んでいた。本来両目のある部分は空っぽで、汚れた作業着を纏った垢だらけの男は、ぽかりと開いた口からぶつぶつと聞き取れない声を漏らしている。

 彼方が真正面から見上げた男の首はぱっくり割れていた。一度は手首を切って死のうと試みたのだろう、だらりと垂れた手首から先には血が固まってこびりついている。しかし死にきれずパニックになり、刃物を自分の首にあてがったのだ。大家にとってこれほど迷惑な死に方もそうあるまい。男の胸元は大量の流血のおかげで黒々としている。

 裸足を引きずるように男が一歩踏み出した。動かない唇の向こうから囁き声が聞こえてくる。闇のような黒い靄が男から滲み出る。不快な血生臭さが彼方の鼻をついた。

「……こいよ。……こっち、こいよ。こっち、こいよ」

 古く狭い部屋で自死した男はさぞ無念で孤独だったろう。死んだ今でも浮かばれないまま寂しがっている。この部屋に縛られたまま、自分を見つけてくれる相手を探し続けている。

「こいつは小物だな」背後から低い声が聞こえた。「だが、丁度腹が減ってたんだ」

「影のくせに」

 彼方が呟いた時、もう目の前に迫った男がぐっとその顔を近づけた。眼球のない眼窩がこちらを捉え、半開きの口で引きつるように笑ってみせる。彼に自分が見えていることを確信し、連れて行こうと悪意を募らせる。

「一緒に、こいよ」

 それが最後の言葉だった。彼方の足元にあった影がぐわりと天井にまで伸び、大きく開けた口で男に頭からかぶりついた。影の中にたちまち上半身が消え、二本の両足が呆然と突っ立っている。影はそれも余さず平らげ、男の代わりに彼方の前に立った。それはもう、彼自身と同じ形の影だった。

「ああ、くそ不味い」

 悪態をつく影に背を向け、彼方は四畳半の和室の窓を開ける。狭いキッチンに和室が二部屋と、トイレに風呂場。以前にこの部屋で自殺した霊は根元から消え去った。

 家々の向こうに川が流れ、その先には海が頭を出している。初めて訪れた小さな町の風景に心は晴れなかった。ただ面倒ごとが起きなければいい。諦めた気持ちで、四月の涼やかな風が部屋の中に滑り込むのを感じた。


 プッと短いクラクションの音に、段ボールを開く手を止めて窓から下をのぞいた。叔父が手を振る姿に急いで部屋を出る。二階建ての古いアパートには、上下に三戸ずつ部屋が並んでいる。階段に一番近い部屋だから便利だと、鍵をくれた不動産屋は言っていた。一階に降りると、叔父の小柴こしばは軽トラックの横に立ち「悪いな」と言った。

「忙しいとこ僕の都合で悪いんだが、商店に挨拶に行こう。車なら数分だよ」

「すみません、いろいろ」

 彼方はズボンのポケットからスマートフォンを出してみせた。いやいやと、叔父は苦笑する。

「いざって時に連絡がつかなかったら困るだろ。持っててくれたら安心だ」

 彼方はこれまで自分用のスマートフォンを持ったことがなかった。型落ちの安い機種だと叔父は言うが、住む場所や働き先の斡旋をしてくれて、電話番号までもらえるとは思わなかった。

「お、それいいな」

 機器にぶら下がる白い鯨の小さなストラップを見て、小柴がにっと笑う。促されて、彼方は軽トラックの助手席に座りシートベルトをかけた。叔父は手際よくエンジンをかけ、発進しながら窓を開ける。

 アパートの庭を出て車がゆっくりと道を走り、彼方はぼんやりと窓の外を眺めた。幻行町げんこうちょう。聞いたことすらない町に、自分の父の弟が住んでいることも、つい最近まで知らなかった。伯母の家で暮らすのは中学を卒業するまでという約束だった。自力で食いつなぐしかないと覚悟していた彼方を見かねて声をかけてくれたのが小柴だった。もうじき子どもが産まれる家に引き取る代わりに、生活を立てる手助けをしてくれている。彼方としても小柴の家で小さくなるよりは、自分で働いて一人で暮らす方が気持ちが楽だ。

「いい町だよ。田舎だけど、海は近いし魚もうまい。交通は不便かもしれんが、住めば都だ」

「うん」

 耳にかかる髪を風に吹かれていた彼方は、小柴を振り向いた。歳は三十を過ぎているはずだが、日に焼けた頑丈な体躯のおかげか幾年分若く見える。短い髪に、工場勤めの作業着はきっとよく似合っているだろう。部屋に居た地縛霊を思い出す。歳は近いが、叔父はまるきり正反対の生き生きとした生命力に溢れている。

「部屋はどうだ。空気が悪いとかはないか」

「大丈夫だよ。何ともない」

「彼方は肝が据わってるな。まさか事故物件でもいいだなんて、驚いたよ」

「気にしなかったらいいだけだし、安いに越したことはないし」

 叔父は大きく声をあげて笑い、ハンドルから離した左手で彼方の肩を強く叩いた。

「いや、恐れ入ったよ。確かに家賃二万を切るのは、この辺が田舎といっても格安だからな」

 叔父には影の話はあまり聞かせていない。自分は取り憑かれているという妄言めいた台詞を一度聞かせただけで、それ以上小柴も踏み込んでこなかった。頭のおかしなやつだと忌避されて、引越しの話が白紙にかえったら堪らないという彼方の打算的な考えもあった。

 軽トラックは坂道を上りきったところで停まった。小高い丘の上で、アパートの二階の窓よりも景色が良く、陽射しに輝く海の煌きが見える。道の脇にある家屋には「三隅商店」と傾いた看板が掲げてあった。引き戸は左右に開かれ、薄暗い店内にびっしりと商品が並んでいる。

「おーい、三隅みすみさん! 小柴です!」

 車を降りた小柴が大声で呼びかけながら入るのに彼方も続いた。米、漬物、ビスケット。ノートに鉛筆。トイレットペーパーから長靴まで、様々な食品や日用品が所狭しと陳列してある。カウンター代わりの木の机にレジスターがあり、奥は居住スペースのようだ。引き戸の向こうからテレビの音声が細く漏れ、小柴が両手をメガホンのように口に当てて更に声を掛ける。

 ようやく、腰の曲がった老人が現れた。小柴の話では、三隅という老人は齢八十を超えていて、身体は丈夫だが耳が遠い。しかし店を畳む気はなく、彼方に店を手伝ってほしいということだった。

「この子、僕の甥っ子。前に話したでしょ、店でバイトすることになってる子!」

つじ彼方かなたです」

 彼方はぺこりと頭を下げたが反応はなく、小柴がもう一度と身振りで示す。大声で名前を繰り返すと、ようやく老人は禿頭を動かして頷いた。

「ああ、よう来た。耳がよう悪いもんでな」

「三隅さん、補聴器あるでしょ、ちゃんとつけなきゃ」

「わしゃあんなもんいらん」

 果たしてこの老人と二人でやっていけるのだろうか。彼方が一抹の不安を覚えると、影がくつくつと笑う声がした。

「せいぜいジジイのお守りでもするんだな」

 影の声は、影自身が相手に姿を見せない限り彼方にしか聞こえない。そして口が悪く不愉快なことばかり口走るので、大抵は無視している。いちいち反応していれば、こちらが変人として見られてしまう。

「明日から、よろしくお願いします」

 小柴の協力の元、何とか仕事の話をつけ、滅多に出さない大声で礼をして店を出た。

「ほら、あのスーパーが出来て、以前より繁盛することがなくなったんだ。だから仕事もそう大変じゃないと思う」

 眼下の景色を指さし、まず三隅には聞こえていないだろうが叔父は声を落とす。彼の指さす方角には、平たい建物と広い駐車場があった。今も出入りする車が見える。

「じゃあ、すまないけど、これから回るところがあるんだ。道は分かるよな」

「はい。ありがとうございました」

「そう改まるなよ。何かトラブったら連絡しろよ」

 小柴の乗り込んだ軽トラックは、道をゆるやかに曲がってやがて見えなくなった。

 彼方はため息を吐き、坂を下って帰路に着いた。ぽつぽつと立ち並ぶ民家には、明らかな廃屋も混ざっている。街灯は点在するが、訪れる夜の闇は深いだろう。

 ちりんと鈴の音が聞こえ、足を止めた。蹴とばしたかと思ったが、真っ直ぐ伸びる道に鈴は落ちていない。前方にも、振り向いた後方にも人っ子一人姿はない。

 首を傾げ、再び歩き出した。ちりりんと澄んだ鈴の音は、遠いのか近いのかさえ分からなかった。

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