第一章:絶望の共鳴

謁見の間の茶番劇から、数日が過ぎた。

湿った石の匂いと、僅かな藁の匂い。王家の地下牢は、光も音も乏しく、世界の底にいるかのような錯覚を覚えさせる。エリナは、壁に背を預け、膝を抱えて座っていた。すべてを諦めた今、この冷たい静寂はむしろ心地よかった。

その静寂を破ったのは、場違いなほど軽やかな衣擦れの音。

ゆっくりと顔を上げると、鉄格子の向こうに、闇の中でもなお煌びやかな人影が立っていた。豪奢なドレスを纏った、公爵令嬢リディア・アルデリーネ。

エリナの唇に、乾いた笑みが浮かぶ。

「あら、これはこれは……高貴なる公爵令嬢様。このような汚い場所に、わざわざ何の御用ですの? あなたの筋書き通りに失墜した、哀れな罪人の姿を見物にいらしたのかしら」

皮肉を込めた言葉にも、リディアは眉一つ動かさない。彼女はただ、鑑定するようにエリナの瞳をじっと見つめていた。やがて、静かに口を開く。

「一つ、お尋ねしてもよろしいかしら。あなたは、本当にただ利用されただけの、哀れな小鳥だったの?」

リディアはそこで一度言葉を切ると、その氷のような瞳で、エリナの魂を射抜くように続けた。

「いいえ、もっと正確に問うべきね。あの断罪劇の、真の脚本家は、あなたなのでしょう?」

その言葉は、静かだが鋭い刃のようにエリナの心の壁を貫いた。エリナの唇から、嘲りの笑みが凍り付くように消える。

リディアは、鉄格子に一歩近づいた。

「すべては、あまりに都合が良すぎた。まず、王子が婚約破棄を企んでいるという、あの『噂』。あれが流れたからこそ、父と国王は万全の準備を整えることができた。あれは本当に、ただの偶然の漏洩だったのかしら。それとも、我々に王子を確実に断罪させるための、意図的な『布石』だったのかしら?」

リディアの声は、静かだが、牢獄の空気をさらに凍てつかせた。

「そして、あの愚かな王子。あなたが彼を焚き付けてこの舞台の『主役』に仕立て上げたのではありませんこと?」

リディアの声が、囁きに変わる。それは、どんな怒声よりも恐ろしい響きを持っていた。

「あなたは、すべての人間を駒として利用した。王子を、自らの破滅を演じる愚かな実行犯として。私を、悲劇のヒロイン兼、断罪の執行者として。そして、我が父と国王陛下を、王子を社会的に葬り去るための、最も確実な『断頭台』として。……そうでしょう、男爵令嬢エリナ・クローディア?」

長い、長い沈黙が落ちた。

やがて、俯いていたエリナの肩が、くつくつと震え始める。それは、抑えきれない乾いた笑い声へと変わった。

「……面白い妄想ですこと。仮にそうだとして、それが何だというのです? あなたにはもう、関係のないことでしょう」

「いいえ、関係があるわ」

リディアの声には、抑えきれない熱がこもっていた。

「謁見の間であなたの瞳を見たときから、ずっと気になっていたの。だから、確かめなければならない……。あなたは、何に絶望しているの?」

リディアの問いかけに、エリナの笑いがぴたりと止まった。牢獄の時間が、凍りついたかのようだった。

やがて、エリナは自嘲とも諦めともつかない、深い息を吐く。

「……あなたの、言う通りよ。あの愚かな王子は、私が少し焚き付けてやれば、喜んであなたへの断罪劇を演じてくれると分かっていた。そして、その茶番の果てに、王子も私も破滅することも。……それこそが、私の望みだったのだから」

エリナは、まるで遠い昔の物語でも語るかのように、淡々と話し始めた。

「私の故郷は、数年前、王国軍が敵国から撤退する際、その退路を確保するための『囮』として、敵国に明け渡されたわ。私は、その仕打ちを『国を守るためには仕方なかった』のだと、自分に言い聞かせてきた。王国もまた、苦渋の決断を下したのだと、そう信じようとしていたの。そうでなければ、正気ではいられなかったから」

「でも、王都に来て、すべてが間違いだったと知った。中央の貴族たちは……私の故郷の犠牲など何でもないかのように、日々の夜会や新しいドレスの話で笑い合っていた」

エリナの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。

「その時よ。初めて、憎いと思った。けれど、憎しみの矛先は彼らではなかったわ。そんな彼らの欺瞞に満ちた平和のために、『仕方ない』と己を納得させてしまった……涙の一粒すら流さず、すべてを諦めてしまった、あの時の私自身が、何よりも醜く、許せなかったの」

彼女は、そこで一度言葉を切ると、すべてを吐き出すかのように続けた。

「だから、自分ごとこの国を燃やし尽くしたかった。……だけど、辺境男爵家の娘という私の立場では、あの愚かな王子を切り捨てられる立場に追いやっただけでも、上出来だった。そう、納得するしかなかった。私は、ここまでよ」

エリナの告白は、リディアの魂の写し鏡だった。彼女の自己への憎悪は、リディアがずっと求めていた、最も純粋で、最も美しい「火」そのものだった。

その言葉を聞いた瞬間、リディアの意識は目の前の牢獄から、遠い過去へと引き戻されていた。

……あれは、リディアが十四歳だった年の、秋の終わりのこと。

夕陽が差し込む公爵家の書庫は、革と古いインクの匂いで満ちていた。彼女は、父であるアルデリーネ公爵と、一冊の英雄譚を前にして語り合っていた。

「お父様、この建国王アレクシオスは、たった一人で反乱軍に立ち向かい、民を守ったのですね。なんて、素晴らしいのでしょう!」

「そうだとも、リディア」父は、娘の金色の髪を優しく撫でた。その瞳は、慈愛に満ちているように見えた。「真に高貴な者とは、力を持つ者ではない。その力を、正義のために、弱き民のために使うことができる者だ。お前も、いずれは王家に嫁ぐ身。このアレクシオス王のように、清く、正しく、そして慈悲深い人間になるのだぞ」

「はい、お父様!」

リディアは満面の笑みで頷いた。父の言葉の一つ一つが、彼女の世界を構成する光だった。この国は、父のような気高い人々によって守られている。そう、信じて疑わなかった。

だが、その世界が音を立てて崩れ落ちたのは、同じ日の夜だった。

父に礼を言おうと彼の書斎を訪れたリディアは、重厚な扉が僅かに開いていることに気づいた。中から漏れるのは、父と、母、そして婚約者であるアルフォンス王子の、楽しげな笑い声。聞き耳を立てるつもりはなかった。ただ、その会話に、聞き覚えのある地名が混じっていたから、足を止めてしまったのだ。

「……それにしても旦那様、北のベイルン領の件、見事な手腕でしたわ。あの飢饉続きの男爵家、たった一通の書状で跪きましたもの」

母の、楽しげに響く声。

「ふふ、泣きながら我が家の門を叩いたときの顔は、実に見ものだったな」

それは、アルフォンス王子の声だった。リディアは息を呑んだ。ベイルン領の飢饉。心を痛め、父と共に寄付金を送った、あの土地のことだ。

「情に流されては国は治まりませんわ、殿下」母の声は、昼間に娘へ慈愛を説いた貴婦人のものと、同じ声とは思えなかった。「民には、我々がどれほどの理知で彼らを導いているかを、骨身に染みて理解していただく必要がございますの。――それに、あの土地は鉄鉱脈の噂もある。我が家にとっても、非常に有益な投資ですわね」

「民が数人死んだところで、大した問題ではありますまい」アルフォンスが心底どうでもいいという口調で言い、それに母は扇子を口に当てて笑った。

「ええ。民など、季節ごとの穀物のようなもの。必要な時に育ち、用が済めば刈り取ればよろしいのです」

リディアは、自分の耳を疑った。昼間、自分に「正義」を説いた父はどこにもいなかった。弱き民のために力を使えと語った声は、今や冷たく計算された支配者の言葉に変わっていた。

すべてが、嘘だった。

彼らにとって、民とは数字。領地とは資産。正義とは、己の利益を飾るための、安っぽい装飾に過ぎなかったのだ。

リディアはよろめきながら、音を立てないようにその場を離れた。長い廊下を歩く。壁に飾られた、アルデリーネ家初代当主の騎士の甲冑が、今はまるで骸骨のように不気味に光って見えた。磨き上げられた床に映る自分の顔を見る。青白い顔、恐怖に見開かれた瞳。

そして、この顔も、この体も、あの人たちと同じ「血」でできているという、どうしようもない事実に、彼女は絶望した。

……そして今、リディアは再び現実へと戻る。

偽りの光では、何も浄化できない。だが、目の前にいるエリナがその内に宿す「炎」は違う。それは、醜い現実と、醜い自分自身を焼き尽くすために生まれた、本物の業火だ。

リディアは、鉄格子を握る手に力を込めた。彼女の瞳には、もはや憐憫も好奇心もない。ただ、エリナという名の炎に対する、渇望だけが燃え盛っていた。

「あなたは、自分を『ここまで』と言ったわね。ええ、その通りかもしれない。あなた一人の力では」

リディアの声は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。

「憎しみで行動していながら、冷静に自分の限界を見極め、最小の力で最大の結果を出す。その頭脳が、私にはない。……それが、欲しいの」

リディアは、エリナの瞳を真っ直ぐに見つめる。

「そして私には、あなたが持たないものがある。アルデリーネ公爵家が持つ権力と、湯水のように使える財が。私の『力』と、あなたの『頭脳』。それがあれば、王子を切り捨てるだけでは終わらない。この国そのものを、灰にできる」

そう言うと、リディアは鉄格子の隙間から、白い手袋に包まれた手を、そっとエリナへと差し伸べた。

共犯者へと向けられた、対等な契約の証だった。

エリナは、差し伸べられたその手を見つめたまま、動けなかった。

その白い手は、彼女が「ここまで」と諦めた、その先の未来を掴んでいるように見えた。この手を取れば、もう諦めなくていいのかもしれない。この国を、そして醜い自分自身を、本当に燃し尽くせるのかもしれない。

声が、震えた。押し殺したはずの感情が、堰を切って溢れ出しそうになる。

「……諦めなくて、いいの……?」

エリナは、まるで夢見るように呟いた。

「まだ、先があるというの……?」

彼女は、自分の胸の奥で、灰になって消えかかっていたはずの炎が、再びぱちりと音を立てて勢いを取り戻すのを感じていた。

エリナは、もう一度リディアの瞳の奥を覗き込む。そこにあるのは、自分と同じ種類の、世界と自分自身への絶望。

(……この人も、同じなのだ)

その事実が、エリナの最後の躊躇いを焼き払った。

エリナはゆっくりと、牢の汚れにすすけた自身の手を伸ばし、リディアの白い手袋に包まれた手を、強く握った。

二つの魂が触れ合ったかのような、熱い衝撃が走る。

その瞬間、二つの視線が交わり、一つの意志が生まれた。

別々の場所で生まれ、別々の絶望を抱えてきた二人の令嬢の声が、寸分違わず重なり合った。

「「――すべてを、燃し尽くしましょう」」

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