第二章:共犯序曲

固い握手を交わした後、先に手を離したのはエリナだった。彼女の瞳から先ほどまでの高揚は消え、再び冷たい知性の色に戻っていた。

そして静かに言った。

「いくらあなたがこの茶番の被害者という立場でも、何度も罪人である私に会いに足を運べば、いずれ不審に思われるわ。そして、私自身もこの牢にいては何もできない。このままでは、私たちの計画は絵に描いた餅で終わってしまう」

その言葉に、リディアも頷いた。二人の共犯関係は、その第一歩から壁にぶつかっていた。

エリナは腕を組み、薄暗い牢の中を数歩ゆっくりと歩いた。しばらく考えたのち、ぴたりと足を止め、リディアへ向き直る。

「……策があるわ」

エリナの提案は、恐ろしくも完璧な、多層的な筋書きだった。

まず、リディアが父であるアルデリーネ公爵に、涙ながらに訴える。「……男爵令嬢エリナは、私と同じ、あの茶番の被害者なのです。彼女はただ王子に利用されただけ……それなのに、罪人として牢で朽ち果てていくのは、あまりに忍びなく……」。娘が、自らと同じ「被害者」に同情を寄せている。その「慈悲深さ」に満足した公爵は、国王に話を通し、エリナの処遇をリディアに一任させた。

こうして、エリナは王家の牢獄から、公爵家が用意した小さな屋敷へと移された。表向きは「公爵家の監視下での軟禁」。しかし、この状態では常に護衛や見張りがおり、何もできない。

だが、エリナの本当の策略は、ここからが本番だった。

屋敷に移って数週間後、エリナは大胆な賭けに出る。見張りの衛兵が扉の外で交代する、その足音が聞こえるタイミングを計り、エリナは部屋にあった椅子の上に立った。天井の梁に、裂いたシーツの輪をかけ、自らの首を通す。そして、外の衛兵に聞こえよがしに、派手な音を立てて足元の椅子を蹴り倒した。

けたたましい物音に何事かと衛兵が慌てて駆けつけると、そこで見たのは、梁からぶら下がり、ぐったりと手足を垂らすエリナの姿だった。「自殺未遂」だ。

報告は、すぐさまアルデリーネ公爵の元へともたらされた。

「馬鹿者めが!」

書斎に、父の怒声が響き渡った。リディアは、父の前に静かに佇んでいる。

「我がアルデリーネ家の監視下で、預かった罪人に自殺を図らせるなど、万死に値する醜聞だ! すべて、お前の監督不行き届きが原因ではないか!」

公爵が責めるのは、エリナの命ではない。家の名誉だ。その醜悪な本性を前に、リディアはエリナに指示された通りの「役」を演じ始めた。

「……申し訳、ございません、お父様」

リディアは青ざめた顔で、か細い声で答える。

「エリナ嬢は、私の前では気丈に振る舞っておりましたが、その心は深く憔悴し、病んでいたのでしょう。……同じ被害者として、彼女の心にもっと寄り添うべきでした。私の、責任です」

罪悪感に打ちひしがれる、傷心の娘。その完璧な演技に、公爵は苛立ちを隠せない。

「それで、どうするのだ! このまま死なれては、我が家が彼女を追い詰めたと噂されるぞ!」

「……彼女は、しばらく生きている、ということにいたします」

リディアは、震える声で、しかしはっきりと進言した。

「エリナ嬢は、今回の件で心身ともに衰弱し、重い病の床に伏した、と。そう言って、このまま離れに隔離いたします。そしてほとぼりが冷めた頃……」

リディアは、そこで一度言葉を切り、涙を浮かべて父を見上げた。

「……病が悪化して亡くなったことにするのです。それが、アルデリーネ家の傷を最も浅く済ませる、唯一の方法かと存じます」

娘の「健気で賢明な」提案に、自らの失態の処理に悩んでいた公爵は、深く頷いた。

「……うむ。よかろう。その件、すべてお前に任せる。誰にも気づかれるな」

すべては、エリナの描いた筋書き通りだった。

こうして、エリナ・クローディアは、公の記録の上では「アルデリーネ家の離れで衰弱して病の床に伏し、その後、静かに息を引き取った」ことになった。

数週間後。名実ともに「幽霊」となったエリナは、リディアと二人、王都の裏通りにひっそりと佇む蔦の絡まる廃屋を、新たな拠点としていた。

リディアは、公爵令嬢としての昼間の顔を終えると、夜闇に紛れて屋敷を抜け出し、エリナの元へと通っていた。最初のうちは緊張していたものの、エリナとの密談は、リディアにとって唯一、仮面を脱ぎ捨てられる時間だった。しかし、その頻度が増すにつれ、新たな懸念がリディアの心を占めるようになる。

その夜も、リディアは廃屋の薄暗い蝋燭の灯りの下で、エリナと向かい合っていた。王都の貴族たちの動向を記した報告書を読み終え、リディアは静かに息を吐く。

「エリナ。このままでは、いずれ露見するわ」

リディアの声には、珍しく焦りの色が滲んでいた。

「私が夜な夜な屋敷を抜け出していること、すでに何人かの使用人が不審に思い始めている。いくら私が公爵家の娘とはいえ、あまりに頻繁では、いずれ父の耳にも入るでしょう。そうなれば、あなたの死が偽りだと発覚するのも時間の問題よ」

エリナは、リディアの言葉に眉一つ動かさず、ただ静かにランプの芯を調整した。その横顔は、闇に溶け込む幽霊のようだった。

「ええ、分かっているわ。私も、この廃屋では限界があると感じていたところよ。持ち込める情報も断片的だし、何より、ここからでは王都の本当の姿は見えない」

エリナは、ゆっくりと顔を上げ、リディアの瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、冷たい確信の光が宿っていた。

「だけど、リディア。いい場所があるわ」

「いい場所?」

「ええ。この王都の、本当の姿が見える場所よ。きっと、あなたも気に入るはずだわ」

その夜、二人は再び夜の闇に紛れて廃屋を抜け出した。エリナがリディアを連れて行ったのは、貧民街のさらに奥、ゴミが散乱する袋小路だった。エリナが、崩れかけた石壁の一部に手をかけ、力を込めて押す。ごとり、と重い音を立てて、壁の一部が内側へと開き、黒々とした闇の入り口が現れた。

「ここは……」

「古い水道の点検口。でも、その奥は違う」

中から、湿った土と黴の匂いが吹き上げてくる。リディアがためらう間もなく、エリナはその闇へと足を踏み入れた。

通路は狭く、天井からは時折、冷たい雫が落ちてきた。だが、しばらく進むと、その空間は不意に開けた。そこは、人の手で丁寧に作られた、石畳の通路だった。壁には等間隔に、空気を循環させるための格子窓まで備えられている。

「信じられない……王都の地下に、これほどの道が」リディアは絶句した。

「この道は、蜘蛛の巣のように王都中に張り巡らされている。主要な貴族の屋敷は、すべて繋がっているわ」

リディアは、驚愕の表情でエリナに問うた。

「どうやって、こんな場所を特定したの?」

エリナは、初めて憎しみ以外の、侮蔑とも言える感情を唇に浮かべた。

「あの愚かな王子が、教えてくれたのよ」

「アルフォンスが?」

「ええ」とエリナは頷く。「謁見の間で断罪されるより、ずっと前のこと。彼は私を口説くために、王家が持つ『秘密の力』を得意げに話してくれたわ。自分の力を誇示したかったのでしょうね。王族は、この地下道を使って貴族たちを監視し、いざという時のための弱みを握っているのだと。……流石に王子も、具体的な場所まではぼかしていたけれど」

エリナは壁に手をつきながら、続けた。

「その曖昧な情報から、この王都の古い地図、そして市井に流れる噂を一つ一つ照らし合わせて、夜中に一人で調べ歩き、ついにこの入り口を見つけ出したの」

エリナは、リディアへと向き直る。その瞳には、冷たい現実を見据える知性が宿っていた。

「だけど、私一人ではこの地下道を有効には使えない。たとえこの道を使って貴族たちの秘密を探り当てたところで、男爵令嬢という私の立場では、その情報を公にする前に、簡単に口封じされて終わりよ。どこかの路地裏で、誰にも知られず消されるだけ」

エリナの視線が、リディアを射抜いた。

「でも、リディア。あなたがいれば話は変わってくる」

アルデリーネ公爵家という、王国でも屈指の権力。その名を後ろ盾にすれば、エリナが掴んだ情報は、もはやただの噂話では済まされない。誰も無視できない、致命的な刃と化す。

リディアは、エリナの言葉の意味を理解した。エリナが差し出したのは、ただの隠れ家ではない。腐敗した貴族社会の、まさに心臓部へと通じる、完璧な暗殺経路だった。

冷たい地下の闇の中、二人は互いの顔を見合わせる。

エリナの「頭脳」が見つけ出し、リディアの「力」が解き放つ、最強の武器。

本当の「共犯者たちの夜」は、今、この場所から始まるのだった。

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