隣のトナリさん
週末の昼過ぎ、宅配でオーナーから御歳暮が届いた。品物と一緒に入っていた添え状には『果物はキミに。ゼリーは皆と仲良く食べてくれ』とだけ書かれ、箱を開けると沢山の上等なゼリーと果物の詰め合わせが入っていた。
「わ、美味しそう」
私の好きな果物が入っているあたり、オーナーも忘れてしまった記憶のひとつなのだろう。それにしても、冬にも関わらず梨もさくらんぼも入ってるなんて、一体どこで手に入れてるんだか……。
均等に分けたゼリーを皆に配りに行くと、案の定というべきか。皆口を揃えて「お中元をお歳暮にまわしたような品目だな」と、失礼なことを言っていた。
トナリさんだけはその日不在だったせいもあり、今日再びこうして訪れているというわけだ。中から気配はするので、手があいていれば応対してくれるだろう。
「──はい」
インターフォンを鳴らして数秒後、何やらいつになく不機嫌そうな声が聞こえてきた。普段とは違う声色に思わずドキリとする。
「あ、おりんです。お歳暮のお裾分け、と言っていいのか……。ええと、忙しければ出直しましょうか?」
「ああ、おりんちゃん? ごめんごめん、今出るからちょっと待っててくれる?」
不機嫌な声など気のせいだと言わんばかりの切り替えに、本能の奥底にある警報が何かのセンサーに引っかかった。そして、すぐにその警報は切れる。
無意識に動く手足は記憶のない私をいつだって補助してきたけれど、トナリさんは基本的に危ない人だ。それはこの本能が知っている。
「さっきはごめんね。もうお歳暮の時期かあ、一年ってはやいねえ」
相変わらずの気怠げな雰囲気に柔和な表情。いつものトナリさんに近いけれど、その瞳はずっと、ずっと冷たい。ちーちゃんが一緒にいたら喧嘩になってただろうな。
私は部屋から持ってきたゼリー入りの紙袋を手渡すと、お返しに「なんだか涼しげなお歳暮だね」という優しい笑みを貰った。背の高いトナリさんの影が私の上に落ちる。
「ねえちょっと、まだあ? 隣のあんたもさあ、少しは空気読んでくれないかなあ」
奥から聞こえる苛立った声に、私たちは一緒になって声の発する方へ顔を向けた。見れば奥の部屋から
綺麗な顔つきと言えば聞こえは良いものの、化粧の度合いが強すぎて元の顔が分からない。メイクの技術だけでいえば、ちーちゃんが欲しがりそうな人材だろう。
「えと、なんか凄い邪魔しちゃってすみません」
「いいんだよ。でも、ちょっと待っててね」
トナリさんはそう言って踵を返すと、明らかに不機嫌そうな音をたてて女性の元へ向かっていく。そして動線上に置いてあったフライパンを大きく振り上げると、ガァンッという音が部屋中に響き渡った。
私は開けたままの玄関扉を後ろ手で閉めると、奥の二人の様子をじっと見つめる。女性は殴られた勢いで横にふっ飛ぶと、小さく呻きながら暫く体をもぞつかせていた。血の匂いが鼻腔をくすぐる。
「トナリさん?」
「ああ、ごめん。驚かすつもりはなかったんだけど、大丈夫?」
「うちは大丈夫ですけど……。血、飛び散ってますよ」
トナリさんは口をぽかんと開けると、心底嬉しそうに「はははっ」と笑っていた。
この人の暴力性はなぜだかよく憶えている。そもそも此処に住んでいる人は、私が憶えていなかろうと隠す気など更更ないのだ。
「あれ、おりんちゃん憶えてるの? マヨコたちから聞いた話じゃ、微妙なラインって感じだったけど」
「まあそんなようなとこ」
粉骨した日に辿り着いた答えではあるが、恐らく頭痛がない時のことは憶えていられるのだ。そして睡眠が一区切りになっているということも。
要は午前中に頭痛があって仮眠し、午後は一切頭痛がなかったとする。そのまま夜就寝すれば、午前のことは忘れてしまうけど、午後のことは憶えていられるというわけだ。忘れてしまったことは、きっかけがないと思い出せないけれど。
「う……。た、すけて………」
消え入りそうな声にちらり、と視線を運ぶと、こちら側に手を伸ばす先程の女性があった。殴られる前の威勢の良さは何処へ行ったのやら。
それでも、自分が危険な状態になった瞬間掌を返す人間は嫌いじゃあない。
「こんな血腥い場所でヤるなんて、トナリさんはいつも元気ですね」
「えー……、なんだか棘があるなあ。言っとくけど、向こうが勝手に脱ぎだしたんだよ? そもそも俺煩い女嫌いだし、いちゃつくだけなら、こんなとこ連れてこないってえ」
「それもそうですね」
「それに、これは元々リンジーの獲物なんだ」
へえ? とトナリさんの方へ目を向けると、彼の冷たい瞳が三日月になる。「ちょっと問題があってね」そういうと、胸ポケットから煙草を取り出した。
血管の浮き出た甲と気怠げに火をつける姿は刺さる人には刺さるだろうが、ちーちゃんの言葉を借りると、どうやら『くたびれたおっさん』らしい。まだそんな年じゃないのにね。
「んー……、まあ静かになればヤれないこともない、か?」
嫌悪感を隠そうともしない目。女性は彼の変貌具合に、声にならない声をあげながら必死の形相で私を見やる。殴られた拍子に鼻でも折れたのか、鼻からの出血が特に酷い。
『殴るなら顔から殴るのが一番だよ。顔や頭ってちょっとの傷でも血が出やすいからさ、沢山血が出てることでヤバいんじゃないかって一瞬パニックになるんだよ。ね? おりんちゃんならよく分かるでしょ?』
トナリさんの言葉が蘇る。その時は適当に流していたが、なるほどこういうことね。まあ鼻が折れてるあたり、力加減はだいぶ間違っていそうだけど。
私は女性を一瞥し、次いでトナリさんを見た。残念だけど、助けてあげることはできない。
「じゃあ、用も済んだんで帰りますね。あ、マヨコくんに連絡するの忘れちゃダメですよ」
「な……っ! なに帰ろうとしてんのよ……っ! おっ、おかしいでしょ……?!」
その言葉を聞き、私は玄関から出ようとした体をぴたり、と止める。溜息を吐きながらゆっくり近付くと、彼女は不穏な空気を感じとったのか目に見えて怯え始めた。別に何もしないのに。
なんならトナリさんを警戒した方がいい。いや、これからのことを考えれば、さっさとその窓から飛び降りた方が良いだろう。
「残念。私たちおかしくないわ。お仕事してるだけだもん」
「お、仕事……?」
「おねえさんこそ異常じゃなあい? 余計な欲さえ出さなければ拷問なんかされなかったのに。もしかして、拷問されたい趣味でもあるの?」
「なん、え……、拷問……?」
鼻からの血が漸く止まりかけた頃、女性はもう一度殴られたかのような衝撃を受けていた。「事務所からなにか盗ってるよね?」という問いかけに、視線があちこち動き始める。
「悪いことしたらロクな死に方しないって言うじゃないですか。あ、でも大丈夫ですよ。血と骨と肉が残るよう祈っててあげますから」
私は女性とトナリさんに手を振ると、玄関から外に出て深呼吸する。トナリさんの専門は拷問と殺し。それを何か問題があってリンジーから任されたということは、まあそういうことなのだろう。
扉越しに一瞬だけ女性の叫び声が聞こえたものの、この建物は全体的に防音仕様になっているから問題はないはずだ。拷問が苦手な自分としてはありがたい。
「この時期はあんまり食費がかからなそうでいいなー、マヨコくんは」
私はぐぐっと体を伸ばすと、煙草に火をつけながら自宅の玄関扉に寄りかかった。肺に煙を溜めて長い、長い息を吐く。煙の
記憶の糸は少しずつ解けていく。それでも消えた記憶を戻すのは、まるで終わりのない賽の河原みたいだ。
*この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。
*また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
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