第5話 屋根の下の契約
四日目の夜。
俺は、屋上にはいなかった。
代わりにいたのは、廃ビルの地下にある、かつてスナックだったであろう薄暗い空間。
看板は剥がれ、カウンターも割れ、床には粉じんと黒いカビが広がっていた。
けれど、今の俺には──この場所が妙に落ち着く気がしていた。
クロに名前を与えた日から、何かが動き始めていた。
夢を見た。
いや、あれは夢じゃない。
俺は夜の中で、無数の目に見られていた。
黒い目。赤い目。にじんだ目。どれも、言葉ではなく感情で語りかけてきた。
≪オマエモ、ナカマ≫
≪マモルノカ?≫
≪イエノナイ、モノタチヲ≫
夜が、何かを欲している。
それが俺を見つめ、選び、問いかけてきている。
(俺は──何に巻き込まれてる?)
そんな疑問を口にする間もなく、夜はまたやってくる。
時刻は23時55分。
手元のナイフは今夜も鋭さを保っている。
そして、足元の暗がりが、ゆっくりとざわつき始めた。
ズル……ズル……ズル……
「来たな、クロ」
黒い影が、カウンターの奥から現れる。
変わらない──けれど、少しだけ輪郭がはっきりしてきた気がする。
≪……ミツケタ……オマエ……ココ……ヘンナバショ≫
「隠れ家だよ。屋根があるだろ? 壁も、扉も。夜の中にある、夜のための家さ」
≪……イエ……カ……≫
クロが呟くように言ったその瞬間、ビルの上層──もう使われていない階から、物音がした。
ガラッ──。
「……誰かいるのか?」
俺は即座に身を伏せ、ナイフを構える。
クロも、空気のように背後に消える。
(いや、こんな廃ビルに……まさか)
足音が近づく。ひとつ、またひとつ。
そして、階段の上から、異様なものが姿を見せた。
男だった。
背広を着た痩せぎすの男。だが、顔がない。
いや、顔が紙になっていた。
ぺらりと貼られた白紙。そこに黒ペンで、「貸し出し中」と書かれている。
「……こいつは……」
≪……クロ、シッテル……アイツ、ナカマジャナイ≫
クロが低く唸るように言った。
≪アイツ、イエノナイモノジャナイ……カリニキタダケ≫
「借りに?」
≪……ヒト……ト、ヨル……カリモノニ、スル、ヤツ……≫
男が手を上げる。
その指先に、白紙がまた一枚──ふわりと宙に舞った。
次の瞬間、それが俺の顔にぺたりと貼りつく。
「ぐっ……!?」
目が、鼻が、口が──奪われる。
息ができない、音が出ない、感覚が白く塗りつぶされていく──!
≪……ヤメロ……!≫
クロの声が、頭の中で弾けた。
刹那、闇の中から黒い腕が伸び、紙の男に襲いかかる。
ずる、ズシャッ!
紙が千切れるような音がして、俺の顔から白紙が剥がれた。
男は声を上げることもなく、まるで風に吹かれたビニールのように、階段の闇へと溶けて消えた。
……残ったのは、また静かな夜。
俺は床に倒れ込んで、荒い息を吐いた。
「……何だったんだ、あいつ……」
≪……ヨルノ、カシヤ≫
「貸し屋……?」
≪ナマエ、カオ、カエリ、オモイデ……カリテイク。トリヒキ、トリヒキ……≫
クロの声が、闇の奥でぼやけていく。
≪……オマエ、トラレナカッタ……ヨカッタ≫
俺は、立ち上がる。
ナイフを拾い、クロの方を見る。
「……なぁ、クロ」
≪?≫
「俺たちだけで、夜を乗り越えられると思うか?」
≪……ワカラナイ。ダカラ、カセ≫
「?」
≪オマエ、ヨルノカセニナル。オレ、マモル。ココ、オマエノイエニスル≫
夜の中での、契約。
言葉にならない何かが、この場所に意味を刻もうとしていた。
俺は、黙ってうなずいた。
もしかしたら、もう戻れないかもしれない。
でも、俺にはここしかない。
この夜しかない。
そして、クロがいる。
俺は、またひとつ──夜の中で、生き延びる理由を得た。
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