第4話 名前をくれた夜
「なぁ。お前、名前、いるか?」
黒い異形──それは、ぴたりと動きを止めた。
夜風が吹き抜ける。
都会の屋上で、月は雲に隠れ、ただ人工のビル灯だけが俺たちをぼんやりと照らしていた。
≪……ナマエ……≫
また、あの音がした。
喉ではない、声帯でもない。骨の軋むような、空気の裂けるような、意味の滲む音。
≪ナマエ……ホシイ……カモ……シレナイ≫
俺はしばらく黙った。
ホシイ。
その言葉の奥にある、渇きのような、飢えのような、でもどこかで諦めに似た響きが、胸に重くのしかかる。
「……だったら、ひとつ貸してやるよ。気に入らなきゃ、捨ててもいい」
俺は考える。長いこと、誰にも名を呼ばれなかったであろう存在に、ふさわしい名を。
夜に生き、闇に潜り、誰にも触れられず、誰にも見られず──それでもなお、声をあげる存在。
「クロってどうだ?」
≪……クロ……≫
それがまた音を立てた。
まるで口に含むように、転がすように。
≪クロ……クロ……クロ、オレ、クロ……≫
名前を得た瞬間、夜の空気がほんのわずか──揺らいだ。
まるで世界の何かが、今この屋上で変化したのを、感知したかのように。
「……変な感じだな。俺、自分以外に名前をくれてやるの、初めてかも」
クロは、しばらく俺を見ていた。顔がないはずなのに、視線のようなものを感じる。
その目が、俺の奥底を覗き込んでくる。
≪……オマエ、フレタ……ヨルニ……≫
「ん?」
≪フレタ、ケガナイ、カワッタ、……オマエ、カワッタ≫
俺は口を閉じた。
気づいていた。
この数日、自分の中で何かが変わっている。
夜が怖いだけじゃなくなった。
むしろ、夜の気配に馴染むような、自分の輪郭が夜に溶けていくような──
……心地よさ。
そう。あの、濁って、濡れたような空気の中に、自分の居場所があると感じてしまっている。
「……お前のせいか?」
≪……チガウ。オマエノ……ナカノ、ナニカ≫
クロの言葉が、ぼろぼろと崩れながら届く。
≪ナニカ……メザメテ……ヨル、トケアウ≫
俺は空を見上げた。
星ひとつ見えない。明かりだけが、ただ都市の虚像のように点滅している。
その下にいる俺たちには、もう境界がないのかもしれなかった。
(昼と夜。人と怪物。理性と狂気。家の中と外。生と死──)
全部、曖昧になってきてる。
「……なぁ、クロ。お前、これからも来るのか?」
≪……マタ、ヨル、クル≫
「なら──また屋上で会おうぜ」
クロは黙って、夜の影へと身を引いていった。
ずる……ずる……ずる……
その音が消えるまで、俺は立ち尽くしていた。
そして、ふと気づく。
あの夜の出会いから、俺は逃げようとしていない。
もうすぐ、四日目の夜が来る。
今度は、もっと深く夜に潜る。
クロとともに。
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