第2話:静かなる観察者 - 賢者の情報収集
都会の喧騒は、時雨悠真にとって、異世界で体験したどんな魔物の咆哮よりも、はるかに複雑で、そして奇妙に響いた。鋼とガラスでできた巨大な箱が天を突き刺し、無数の窓が星屑のように夜空に瞬く。人々は皆、一様に早足で、彼の見知らぬ紙片や金属の板を熱心に見つめている。ここが、本当に彼の故郷なのか。その違和感を拭い去るには、あまりにも多くの情報が、滝のように彼の知覚に流れ込んできた。
彼は街を歩いた。その足取りは、まるで透明な存在であるかのように静かで、誰の目にも留まらない。彼の五感は、異世界で培った魔導的な探知能力と融合し、この時代の日本の全てを、まるで精密な計測器のように読み取ろうとした。駅の構内では、新聞売りの少年が「戦況緊迫! 南方作戦準備!」「国民総力挙げよ!」と枯れた声で叫び、人々は食い入るようにその紙面を追う。ラジオからは、勇ましい軍歌の合間に、物資不足を訴える「贅沢は敵だ」という節約の呼びかけが、耳に痛いほど繰り返し流れていた。その声は、彼の耳の奥にまで染み渡り、言いようのない重苦しさを感じさせた。
人々の表情もまた、時雨にとっては重要な「情報源」だった。表面は明るく振る舞い、国家の掲げる「大義」に頷いているように見える。だが、時雨の卓越した洞察力は、その瞳の奥に潜む、深い不安と、隠しきれない疲労の影を明確に捉えていた。彼らが口にする「我慢」「耐える」といった言葉の裏に、どれほどの諦念が隠されているか、時雨には痛いほど理解できた。特に、街を行き交うトラックの荷台に積まれた粗末な物資や、ガソリンとは異なる、どこか懐かしくも貧しい燃料の臭い、食料品店の棚の寂しさが、時雨の胸に重くのしかかった。彼の脳裏には、異世界で飢えに苦しむ人々の姿が、鮮烈な映像となってフラッシュバックする。
異世界であらゆる事象の本質を見抜き、その因果を解き明かす知性を身につけた時雨には、この国の表面的な活気の裏に潜む、深刻な資源不足と、それがやがて来るべき戦争において致命的な弱点となる未来が、鮮明な映像として見えていた。彼は、このままでは、どれほど人々が勇ましく叫び、戦いに身を投じようとも、日本は長く戦い続けられないことを直感した。彼の内に、祖国への深い懸念が、冷たい氷の塊のように募っていく。それは、彼の「平和な故郷を守る」という揺るぎない信念に、静かに、しかし確かな亀裂を入れるほどの衝撃だった。
夜、明かりの少ない宿屋の片隅で、時雨は今日一日で得た膨大な情報を整理していた。壁に映る、彼の長い影は、どこか孤独に震えているようにも見えた。彼の頭の中では、集めた膨大な事実が、まるで巨大なパズルのピースのように組み合わさり、やがてこの国の「真の姿」を形作っていった。軍部の予算、主要工業地帯の稼働率、資源の輸入経路、そして民衆の士気……それら全てを組み合わせた結果、彼の超越的な思考が導き出した結論は、「このままでは、いずれ国は疲弊し、滅びる」という、冷徹な未来予測だった。彼の胸中には、言いようのない不安の増幅が、静かに、しかし確かな波紋となって広がっていった。
特に気になったのは、新聞記事の片隅に書かれた、軍部内の派閥争いに関する噂話だった。田中大将が改革派である一方で、彼の行動が保守派から強い圧力を受けているという。時雨は、自身が持つ「力」がこの時代ではあまりに異質であることを再認識した。もし迂闊にその全てを晒せば、彼らが賢者の意図を正しく理解できず、かえって事態を悪化させる可能性もある。彼の能力が「理解されない超常現象」と見なされることで、彼の行動が意味をなさなくなることを、時雨は最も恐れた。その事態だけは、何としても避けなければならない。
「……慎重に、そして確実に。彼らの常識の範疇を超えた部分を埋めるべく、思考を巡らせなければ。信頼を得なければ、何も始まらない。この力を、彼らが真に必要とする『希望』として受け入れさせなければ」
時雨は、田中大将への接触方法を、より周到なものへと修正する。単に魔法を見せるだけでは足りない。彼らの常識の枠を打ち破り、自身の能力を「神秘」ではなく「実用的な技術」として認識させる、綿密な「演出」が必要だった。その演出には、彼らの心のざわめきを鎮め、彼らの信念の揺らぎを確かなものに変えるための、具体的な準備が盛り込まれる。それが、賢者が異世界で磨き上げた「真理を説く術」だった。
静かな部屋に、遠くから聞こえる汽笛の音が、彼の深い思索のBGMのように響く。時雨は目を閉じ、来るべき会談のシミュレーションを頭の中で、秒単位で繰り返した。彼の脳裏には、田中大将と佐藤外務大臣の表情、彼らの発する言葉、そしてそれに対する自身の最適な応答が、鮮明に描かれていく。この国の未来が、彼の最初の言葉と行動にかかっている。彼の内に、故郷を守るという強い意志が、確固たる決意として芽生え、彼を次の行動へと駆り立てていた。その瞳には、すでに未来の光が宿っているかのようだった。
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