第23話 霧中の行軍

​ 乳白色の霧の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、世界から、音が消えた。

 いや、正確には、音がこもって、まるで分厚い壁の向こう側で鳴っているようにしか聞こえなくなったのだ。さっきまで背後で聞こえていた鳥のさえずりも、風の音も、全てが嘘のように途絶える。


​「……うわっ」


 ​振り返っても、そこにあるのはただ濃い霧だけ。ついさっきまでいたはずの森の入り口は、もう見えない。

 完全に、外界から切り離されてしまった。


 ひんやりとした湿った空気が、じっとりと肌にまとわりつく。視界は、前後左右、せいぜい三メートルといったところか。


​「全員、いるか!?」


 ​俺が声を張ると、すぐ近くから「おう」「はい、ユウキ様」「いるニャ」と、三者三様の返事が返ってきて、少しだけ安堵した。


​「ここからは、わしが先頭を行く。皆、わしから絶対に離れるなよ」


 ​バランが、年の功を感じさせる落ち着いた声で指示を出す。

 彼は、腰に下げた鉈を抜き放つと、慎重に、一歩一歩、足元を確かめながら進み始めた。俺たちも、それに続く。

 しかし、数十分も歩いただろうか。バランが不意に足を止めた。


​「……いかんな。完全に方向が分からん」


 ​彼の視線の先には、根元に奇妙な形のコブがある、ねじくれた大木があった。

 その木を見て、俺は嫌な予感を覚える。


​「バランさん、その木……さっきも通らなかったか?」


「……ああ。どうやら、同じ場所をぐるぐると回らされとるらしい。この谷の霧は、ただ視界を遮るだけじゃない。人の方向感覚そのものを狂わせる代物じゃ」


​ ベテランのバランですら、この霧には敵わない。まずい状況だ。このままでは、体力を消耗して、遭難するのが関の山だ。

​ 皆の顔に、不安の色が浮かび始めた、その時だった。

 ミィナが、ふんふんと、小さな鼻を懸命に動かしていた。


​「……ユウキお兄ちゃん。あっち」


 ​彼女が、小さな指で指し示したのは、これまで俺たちが進んでいた方向とは、少しだけ違う方角だった。


​「あっちの方から、ほんの少しだけ、新しい空気の匂いがするニャ! あと、水の匂いも!」


「なに!?」


 ​バランが驚きの声を上げる。


 俺たちは、ミィナが指し示す方向へ、半信半疑で進んでみた。

 すると、どうだろう。数分も歩かないうちに、これまでとは明らかに違う、緩やかな下り坂に出た。そして、耳を澄ますと、微かにせせらぎのような水の音が聞こえてくる。


​「すごいな、ミィナ! あんたの鼻は、最高のコンパスだ!」


 ​俺が頭を撫でてやると、ミィナは「えへへ」と嬉しそうに笑った。これで、進むべき道は見失わずに済みそうだ。

​ だが、次の問題は、この濃すぎる霧だった。これでは、いつ魔物に奇襲されてもおかしくない。


​「ユウキ様、わたくしにお任せを!」


 ​セレスティアが、またしても自信満々に胸を張る。


​「この忌々しい霧、わたくしの聖なる光で、根こそぎ吹き飛ばしてご覧にいれますわ! いでよ、神の威光――【太陽光サンライト】!」


「待て待て待て、馬鹿! やめろ!」


​ 彼女が、とんでもない規模の魔法を使おうとするのを、俺は背後から羽交い締めにして、全力で阻止した。


​「そんなことしたら、谷中の魔物が『ここにいますよー!』って集まってくるだけだろ!」


「ですが、このままでは視界が……!」


「もっと、こう、ささやかな感じで頼む! ほら、提灯くらいの、小さい明かりとか!」


 ​俺の必死の訴えに、セレスティアは「ちょうちん……」と小首を傾げたが、すぐに何かを理解したようだった。


​「なるほど! ユウキ様の周囲だけを、優しく照らす、愛の光、ということですね!」


 ​彼女が指を鳴らすと、ふわり、と俺たちの周囲に、淡い光を放つ小さな光球が、五つ、六つと現れた。それは、まるで蛍のように、俺たちの周りを漂い、半径五メートルほどの視界を確保してくれる。

 これなら、目立ちすぎることもないし、お互いの姿を見失う心配もない。


​「よし、それでいい! よくやった、セレス!」


「はい! ユウキ様のお役に立てて、光栄です!」


 ​褒められて、セレスティアは尻尾があればちぎれんばかりに振っているだろう、というくらい、ご機嫌になった。

​ 進むべき道を示す鼻。周囲を照らす光。危険を察知する経験。

 そして、いざという時の、最強の切り札。


 バラバラだった俺たちの力が、少しずつ、噛み合い始めている。

​ 俺は、皆に指示を出した。


​「フォーメーションを組むぞ。先頭はバランさん、地形の危険を警戒してくれ。ミィナはそのすぐ後ろで、匂いを頼りに進路を。セレスは先頭で、光球の維持と迎撃準備。俺は最後尾で、全体を見て指示を出す」


 ​俺の言葉に、三人は、力強く頷いた。

 そしてバランが言った。


「ほう。若いの、なかなか様になってきたじゃないか」


 そう、感心したように笑う。


 ​こうして、俺たちのパーティは、初めて一つのチームとして、機能し始めた。

 ミィナの鼻を頼りに、バランが安全なルートを切り開き、セレスティアの光が視界を確保する。俺は、常に周囲に気を配り、彼らの情報を元に、最終的な判断を下す。


 途中、霧の中から、幻覚を見せる奇妙な胞子を飛ばすキノコや、底なしの沼地が何度も現れたが、俺たちは、その都度連携して、それらの障害を乗り越えていった。


 ​それから、どれくらい歩いただろうか。

 数時間は、経過したはずだ。


 俺たちの目の前で、不意に、あれほど濃かった霧が、少しだけ薄れた。

 そして、その霧の向こうに、俺たちは、信じられない光景を目の当たりにした。


​「……なんだ、あれは」


​ そこに、あったのは。

 苔に覆われた巨大な石造りの建造物だった。

それは、自然にできたものではない。明らかに、人の手によって作られた、古代の遺跡。

 この谷は、ただの危険な抜け道などではなかったのだ。


 ​そして、俺は、ミィナも、バランも、同時に感じ取っていた。その遺跡の暗く開かれた入り口から、漏れ出してくる、強烈な魔力の気配と明確な敵意を。


​「……おいおい。とんでもないモンが、眠ってやがるみてえだぜ」


​ バランの呟きが静まり返った空間に、やけに大きく響いた。


 俺たちは、ゴクリと喉を鳴らし、その未知なる遺跡を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

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