第5話 豚の寝床亭

 『豚の寝床亭』の二階の部屋は、その名の通り、豚小屋と大差ない場所だった。

 ギシギシと鳴る床、隙間風が吹き込む窓、そして部屋の真ん中には、藁が詰められたマットレスが二つ、無造作に置かれているだけ。お世辞にも清潔とは言えない。


「……まあ、値段相応か」


 文句を言っても始まらない。俺は適当な壁に背を預け、どさりと床に座り込んだ。

 追われる身としては、これくらいの方がむしろ落ち着く。豪華な白亜の城(仮)よりも、よっぽどマシだ。


「ユウキ様! なんと劣悪な環境でしょう! 今すぐわたくしが、この宿ごと聖なる光で浄化し、新たなる宮殿を……」


「やめろって!」


 案の定、隣でセレスティアがとんでもないことを言い出したので、俺は慌ててその口を手で塞ぐ。

 彼女は不満そうに「むぐぐ……」と唸っているが、構うものか。


「いいか、セレス。郷に入っては郷に従え、だ。ここでは、俺たちはこういう生活をする。分かったな?」


「……ユウキ様が、そうおっしゃるのであれば……」


 しぶしぶといった様子で頷くセレスティア。彼女はすぐにハンカチを取り出すと、俺が座る場所の床を甲斐甲斐しく拭き始めた。


「せめて、ユウキ様がお触れになる場所だけでも、清浄に保たねば……」


「そういうのも目立つからやめろ!」


 俺の制止も聞かず、彼女は祈りを捧げるかのように、一心不乱に床を磨き続けている。

 もう、何を言っても無駄な気がしてきた。俺は深いため息をつき、思考を切り替えることにした。


「なあ、親父が言ってた『黒鉄の爪』って、何なんだろうな」


「……さあ。下賤な者たちの集まりに、興味はございません」


 床を拭く手を止めずに、セレスティアは吐き捨てるように言った。

 彼女の中では、俺以外の人間は、道端の石ころ程度の価値しかないらしい。


(関わるな、と言われた以上、関わらないのが一番だが……)


 こういう街のゴロツキというのは、厄介なものだ。

 特に、俺たちのような新参者は、目をつけられやすい。金を持っていることも、宿の親父とのやり取りでバレてしまっているだろう。


「とにかく、しばらくはこの宿でおとなしくしてる。金が尽きる前に、何か日銭を稼ぐ方法を見つけないと……」


「お任せください! この街の金鉱を全て掘り尽くし、ユウキ様に献上いたします!」


「だからスケールがでかいんだよ! もっとこう、地道な方法でだ!」


 例えば、薬草採りとか、ゴブリン退治とか。

 いや、俺に戦闘能力はないから、ゴブリン退治は無理か。となると、何か生産系のスキルでもあれば……いや、俺のスキルは【好感度操作】だった。全く役に立たない。


 俺が頭を抱えていると、不意に階下から怒声と何かが割れる派手な音が聞こえてきた。


「おい、オヤジ! 今月の『みかじめ』、まだもらってねえぞ!」


「ひぃ……! す、すみません! 今はこれだけで……!」


「あぁん? なめてんのか、コラ! 『黒鉄の爪』に逆らうってことが、どういうことか分かってんだろうな!」


 ドゴッ!と、鈍い打撃音。そして、宿の親父の苦悶の声。

 まずい。面倒なことになった。


「……『黒鉄の爪』か」


 俺は息を殺し、床板の隙間から階下の様子をそっと窺う。

 カウンターの前には、見るからにガラの悪い男たちが三人立っていた。その腕には、揃いの黒い鉄製の鉤爪が装着されている。あれが奴らのトレードマークなのだろう。

 男たちの一人が、カウンターに突っ伏している宿の親父の髪を掴み、無理やり顔を上げさせている。


「いいか、明日までに金貨五枚、用意しとけ。できなきゃ、この店もテメェの命もねえと思え!」


「そ、そんな……!」


「分かったら返事しろや!」


 男は親父を突き飛ばし、仲間たちと下品な笑い声を上げながら、宿から出て行った。

 残されたのは、静寂とカウンターでうずくまる親父のすすり泣く声だけだ。


「……」


 胸糞が悪い、とは思った。

 だが、俺に何ができるわけでもない。下手に首を突っ込めば、俺たちが危険に晒されるだけだ。

 宿の親父には悪いが、見て見ぬふりをするしかない。それが、この世界で賢く生きるための処世術というものだ。


 俺はそっと床板から顔を離し、セレスティアの方を振り返った。

 そして、自分の考えが甘かったことを、すぐに思い知らされた。


「……ユウキ様」


 セレスティアは、いつの間にか床を拭くのをやめ、静かに立ち上がっていた。

 その美しい顔は、普段のぽわぽわした表情が嘘のように、絶対零度の怒気に満ちている。

彼女の蒼い瞳が、燃えるような光を宿して、階下――ゴロツキたちが出て行った扉の方向を睨みつけていた。


「あの者たちは、ユウキ様がご滞在あそばされるこの宿を汚し、あまつさえ、ユウキ様のお耳に不快な騒音を届けました」


「い、いや、俺は別に……」


「万死に値します」


 ひ、ひぃ……!


 彼女から放たれる凄まじいプレッシャーに、俺は思わず後ずさる。

 これは、ヤバい。完全にスイッチが入ってしまっている。


「ユウキ様は、何もご心配なさらず。わたくしが、あの者たちに『神の教え』を説いてまいります。二度とユウキ様のご不快になるような真似ができぬよう、その魂の根源から浄化してしんぜましょう」


「待て待て待て! 落ち着けセレス! お前の言う『浄化』って、物理的に消滅させるって意味だろ!?」


 俺は必死に彼女の腕を掴んで引き留める。

 こんな街中で聖魔法をぶっ放してみろ。お尋ね者であることがバレるどころの騒ぎじゃない。街ごと消し飛びかねない。


「なぜお止めになるのですか、ユウキ様! あれは『悪』です! 悪は、ユウキ様がお望みになる平穏な世界の、最大の敵! 排除せねばなりません!」


「だからって、お前がやることじゃない! いいから、ここでおとなしくしてろ!」


「……はっ!」


 俺がそう言った瞬間、セレスティアは何かを閃いたかのように、目を見開いた。

 そして、恍惚とした表情で、俺の手をぎゅっと握り返してきた。


「そうでしたか……! そういうことでしたのですね、ユウキ様!」


「は? 何がだよ」


「これは、わたくしへの『試練』……! わたくしのユウキ様への愛が、本物であるかどうかを試すための……!」


「話が飛躍しすぎだろ!」


 なんでそうなるんだよ!

 俺のツッコミも、もはや彼女の耳には届いていない。

 セレスティアは、完全に自分の世界に入り込んでしまっていた。


「分かりました、ユウキ様。わたくし、やってみせます! ユウキ様のお手を煩わせることなく、あの者たちを排除し、この街に真の安寧をもたらすことで、わたくしの愛を証明してみせます!」


「だから、やめろっつってんだろ!」


 俺の制止を振り切り、セレスティアは身軽な動きで窓枠に足をかけた。

 そして、俺に向かって、女神のように微笑んだ。


「すぐに戻ります。どうか、わたくしの帰りを、この愛の巣でお待ちくださいね」


 そう言い残すと、彼女はひらりと窓から飛び降り、まるで重力など存在しないかのように軽やかに屋根の上を駆けって、あっという間に姿を消してしまった。


「あ……」


 俺は、窓の外に伸ばした手のやり場もなく、ただ呆然と立ち尽くす。

 静まり返った部屋に、俺の情けない声が響いた。


「……俺のスローライフが、また遠のいていく……」


 階下からは、まだ宿の親父の嗚咽が聞こえてくる。


 だが、俺の頭の中は、それどころではなかった。

 あの暴走聖女が、街のチンピラ相手に、一体どんなオーバーキルをかますつもりなのか。

 想像しただけで、胃がキリキリと痛み始めた。

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