四話 天元の教え

◇◇◇ 玉蓮 ◇◇◇


 夕暮れ時、図書堂から呼ばれた玉蓮は、書斎で劉義と盤を挟んだ。


 言葉なく淹れられた茶が、静かに彼女の前に置かれる。そして、師がいつものように、年季の入った小さな碁笥ごけを差し出し、玉蓮はそれを受け取り、丁寧に蓋を開けた。


 その部屋に静かに石を打つ音が響く。ぱちり、と石が置かれるたび、古い木と墨の匂いがふわりと立ち、昼間の汗の匂いは消え、思考だけが研ぎ澄まされていく。黒石を握る玉蓮は、獲物を狙うように盤を睨み、迷いなく石を置く。劉義が、静かに笑った。


「玉蓮。お前に、一つだけ定石を教えよう」


 玉蓮は石を打つ手を止め、師の言葉の真意を探るように、その顔を見上げる。


「今、お前と私の戦いでは、置き石を置いている。それは、お前がまだ幼く、盤上の戦いに慣れていないからだ」


「はい。置き石を減らせるよう、精進いたします」


「ああ、そうだな……だが、実際の戦においては、相手は決して手加減はしてくれぬ。敵は容赦なく、お前の弱みを突き、最も残酷な一手を打ってくるだろう」


 玉蓮は、劉義の言葉を聞いて改めて盤に視線を落とした。


「そんな時、お前がもし後手になったとしても、これから教えるこの定石は、お前を生かしてくれるであろう。それは、単なる戦術ではなく、生き抜くためのすべなのだ」


 劉義はそう言って、墨で描かれた碁盤の中央を静かに指差した。彼の乾いた指先が示したのは、盤面の中央、ただ一点。それは、まるで宇宙の中心を示すかのような、孤高にして絶対的な場所。


 ——天元てんげん


 その指先が示した先を見て、玉蓮は眉根を寄せる。彼女のこれまでの学びでは、地の確保を優先する隅や辺が重要とされてきたからだ。それこそが勝利への道だと。


「……先生、ここでは勝てません。すぐに囲まれてしまいます」


 どう思考を巡らせても、中央の一手は悪手にしか思えない。


「そうだな。この手は決して勝つための手ではない。地の利を求めるならば、隅や辺が正しい。だがな、玉蓮。周りがどれほど黒い石に囲まれようと。敵の猛攻を受け、四方から火が押し寄せても、この一点が燃え残れば、お前の色は消えない」


「わたくしの、色?」


「そうだ。決して、お前自身にことはないのだ」


 玉蓮はゆっくりと顔を上げて、劉義の顔を見つめる。盤に向けられた彼の瞳は、まるで何もかもを見透かしているかのようだ。


 そして、彼の視線の先を追うようにして、もう一度、盤の中央に視線を戻した。


「……玉蓮には……よく、わかりません」


 ただその言葉が口をついて出る。劉義は優しく微笑んで、そして音もなく白石を天元に置く。


「ああ、まだそれで良い。いつかわかる時が来るだろう」


 やがて、白石が盤を満たし、黒は消えていく。自らの黒石は、もはやどこにも活路を見出せない。玉蓮は、視線を上げることなく、か細い声で「……ありません」とだけ告げた。


 盤上には、天元てんげんの一石と、それを守るかのように広がる白石の群れが残されていた。

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