第一章:時に忘れられた聖域
鎌倉のその谷戸はまるで現代から切り離された時間の孤島だった。
駅前の喧騒を離れ、細く入り組んだ路地を抜けると空気の匂いが変わった。土の匂い、湿った苔の匂い、そして季節の花の甘い香り。私が普段暮らしている無菌室のようなスマートシティでは決して感じることのない混沌とした、しかし力強い生命の気配がそこには満ちていた。
私のハイヒールが不揃いな石畳の上で場違いな音を立てる。
その音は谷戸の静寂をまるで冒涜するかのように響いた。私はなぜか足音を殺すように歩き始めた。この場所が私の普段の世界とは全く異なる法則で動いていることを本能的に感じ取っていたからだ。
そこには茅葺屋根の古民家がまるで眠っているかのように静かに点在していた。庭には手入れの行き届いた木々が風にそよぎ、縁側では猫が丸くなって昼寝をしている。
ここは私の設計図とは対極にある世界。
非効率で非合理的で、そしてどうしようもなく美しい世界。
私は自分の心の片隅に芽生えた小さな戸惑いを打ち消すように背筋を伸ばした。感情的になってはいけない。これは仕事だ。
だがその時、風が頬を撫でていった。それは都市の乾いた風ではなく、水分をたっぷりと含んだやわらかな風だった。私の頬に触れたその風は何か大切なことを私に囁いているようだった。
立ち退き交渉の最初の相手はこのコミュニティのリーダー格だと資料にあった一人の老人だった。
表向きの職業はただの庭師。
しかしその経歴は異色だった。
若い頃は理論物理学の世界で将来を嘱望された天才科学者。しかし四十代で突如として学界から姿を消し、この古民家で隠遁者のような生活を送っているのだという。
私は資料を読み返しながら疑問を感じていた。なぜこれほどの天才が学問の世界を捨てたのか。そこには何か深い理由があるはずだった。
彼の家の門を叩くと中からしわがれた、しかしよく通る声がした。
「どなたかな」
現れた宗観は私が想像していたよりも小柄な老人だった。八十五歳と聞いていたがその背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。着古された作務衣に身を包み、その深い皺が刻まれた顔には全ての感情を超越したかのような穏やかな静けさが湛えられていた。
だが何より私を驚かせたのはその瞳だった。それは年齢を感じさせない透明な輝きを放っていた。まるで宇宙の星々を映した古い湖のように深く、私の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「榊圭と申します。再開発プロジェクトの責任者です」
私は名刺を差し出した。
宗観は私の名刺を受け取ることなく、ただじっと私の顔を見ていた。その視線は責めるでもなく拒絶するでもなく、ただ静かに私という存在全体を受け入れているようだった。
「ほう。あなたがこの谷を壊しに来られたお嬢さんか」
彼の言葉には棘はなかった。
ただ事実を述べているだけという響きがあった。
「壊すのではありません。より良く生まれ変わらせるのです。安全性、快適性、効率性。全てにおいて現在の何倍も優れた環境を皆さんにご提供できます」
私は用意してきたプレゼンテーションの文句を淀みなく並べ立てた。
だが宗観の前でそれらの言葉を口にしていると、なぜか自分の声が空虚に響くように感じられた。まるで中身のない機械的な音声のように。
宗観は黙って私の話を聞いていた。
そして私が話し終えるとゆっくりと口を開いた。
「お嬢さん。あんたさんの言う効率とは一体なんなのかな」
「……時間と労力を最小限に抑え最大の成果を得ることです」
「ほう。では成果とは何かな」
「……経済的な価値、あるいは社会的な有用性です」
宗観はふっと笑った。その笑顔には嘲笑の影はなく、むしろ慈愛に満ちていた。
「ここにいる我々はもう何の成果も生み出さんよ。ただ飯を食い庭を眺め、そしていずれ土に還るだけだ。あんたさんの物差しで測れば我々は無価値ということじゃな」
彼のその静かな問いに私は言葉を詰まらせた。
論理的にはそうだ。だがそれを肯定することはなぜかできなかった。彼の存在そのものが私の価値観に静かな疑問符を突きつけていた。
「まあ立ち話もなんじゃ。お入りなさい。お茶でもお淹れしよう」
私は彼の誘いを断ることができなかった。
今思えばこの時、この老人の内側に何か私の知らない巨大な世界が広がっていることを、私は本能的に感じ取っていたのだ。
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