第48話『永遠の約束』

 ――深夜。


 統樹ツカサの部屋は、夜景に包まれていた。

 六十六階のペントハウス。四方の大きな窓からは、摩天楼の灯りがまるで星座のように瞬き、空に溶けていく。

 どこか遠くの車のクラクション。エレベーターの低い作動音。

 しかし、この広い部屋の中は、静寂だけが染み込んでいた。


 カガリはソファに沈み込んだまま、膝を抱えていた。


(――もう、深夜よ……?)


 ツカサが「野暮用で出る」とだけ言い残し、扉が静かに閉じてから、

 部屋の時計の針は幾度も音もなく周回している。


 初めてだった。

 出会ってからというもの、どんなに短い外出も一緒だった。

 どんなに多忙でも、必ず傍にいた――それが、今日だけは叶わない。

 そのことが、胸の奥でじわじわと、鈍い痛みを生んでいた。


 何も手につかない。

 何をしても、何を見ても、

「ツカサがいない」という現実が

 空気の隅々にまで染み渡っていた。


 ペントハウスは、ため息のような静けさに満ちていた。

 どこを見ても美しい。

 最高級のインテリア、統樹ブランドのアートや花瓶。

 ただ、ツカサがいなければ、

 その豪奢さも、

 ただの「飾り」に過ぎない。


 ――捨てられたのかもしれない。


 ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。

 あり得ない、そう否定したいのに、

 不安の影が、どうしても胸の隙間に滑り込んでしまう。


「私、こんなにツカサさんに依存していたのね……」


 思わず、呟きが漏れる。

 自分でも、こんな弱い女だったとは思わなかった。

 けれど、気が付けば彼のことばかり考えている。

 指先に感じた温もり、荒々しい手、

 夜ごと抱かれたあの逞しい体温――


 一度味わってしまった幸福の残像は、

 こんなにも残酷に心を締め付けるものなのか。

 きっともう、元には戻れないのだと、

 カガリはうすうす分かっていた。


 枕元の携帯は鳴らない。

 連絡もない。

 ツカサなら“本当に必要な時しか”電話などしてこない。

(――でも、今はそれが欲しい)


 リビングの窓辺に歩み寄り、

 眼下に広がる東京の夜景を眺める。

 その美しさも、彼がいなければ“ただの景色”でしかなかった。


 孤独。

 それが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。

 遊女時代の寂しさとは、まるで違う。

 あの頃は「生きるため」の孤独だった。

 今は「愛する人に逢えない」孤独――

 どちらが辛いのか、もう比べることすらできない。


 ベッドルームの扉をそっと開けてみる。

 まだ、彼の匂いがシーツや枕に微かに残っている。

 思わず、枕に顔を埋めて深呼吸する。

 苦しくて、切なくて、

 それでも、涙は出てこない。

 ――それだけ、今の自分が“生きている”ことの証なのだと知る。


「会いたい……」

「ねぇ、いつ帰ってくるの?」

「私、もっと――もっと、あなたに抱かれたいのに……」


 声にしてみると、

 途端に涙が頬を伝う。

 まるで子供のように。

 誰も見ていないはずなのに、

 誰かに抱きしめてほしい。

 ただそれだけのことが、こんなにも叶わない夜がある。


 それでも、

 ツカサの顔が浮かぶ。

 あの、ぶっきらぼうな声。

 まっすぐで、どこまでも自分だけを見てくれる瞳。

 眠りに落ちる前に髪を撫でてくれた手。


「――また、あの腕に包まれたい」


 カガリは唇を噛んだ。

 自分がどれほど愛されていたか、

 どれほど愛しているか、

 ツカサが不在のこの夜に、はじめて本当の意味で知ったのかもしれない。


 彼女は静かに、夜が明けるのを待った。

 ツカサが帰ってきてくれるその時を、

 誰よりも強く、熱く願いながら――。


 ―――


 ――玄関のドアがゆっくりと開く音が、やけに大きく響いた。


 その向こうに、ツカサがいた。

 夜明け前の摩天楼のペントハウス。

 静寂を切り裂くように、「……ただいま」と低く掠れた声が、闇の中に投げ込まれる。

 カガリは、その一言だけで、胸の奥まで満たされるような安堵を感じていた。


 ソファで膝を抱えていた身体が、反射のように跳ね起きる。

 涙がにじみそうになるのを、誤魔化す余裕すらなかった。


(――やっと、帰ってきてくれた……)


 それだけで、世界のすべてが元に戻るような気がした。


 廊下に足を踏み入れた瞬間、

 彼の背中越しに夜景の光が長く伸びて、

 二人だけの世界を包み込んでいく。

 カガリはゆっくりと、けれど迷いなくツカサの元へ歩み寄る。


「――おかえりなさい」


 声が震えそうになる。

 一歩、また一歩。

 ツカサの顔はどこか疲れていたが、その瞳だけはどこまでも澄んでいた。


 カガリの腕が、ツカサの胸に回るよりも早く、

 彼の大きな手が、まるで落ちるものを受け止めるように、

 背を強く、しかし優しく引き寄せた。


「……ああ、幸せだ」


 彼の吐息混じりのその声。

 まるで地の底から絞り上げられるような、

 苦しみと歓びの混ざった、深い安堵と愛情の響き。


 カガリは彼の胸に顔をうずめる。

 その瞬間――

 ふ、と微かな違和感。

 ツカサのスーツに、いつもと違う匂い。

 それは鉄と、火薬の残り香だった。


(……もしかして、何か……)


 けれど、ツカサは何も言わなかった。

 カガリも、何も聞かなかった。

 二人の間に今、必要なのは「ただの温もり」だけだった。


 カガリは無意識に、ツカサの身体にすがりつく。

 まるで夢から醒めたばかりの子供のように、

 その胸の中で小さく震えながら、

 ただ、彼の存在を確かめていた。


 ツカサの手が、カガリの髪をそっと撫でる。

 粗野な指先なのに、今夜ほど優しく感じたことはなかった。


「――カガリ」


 低く、穏やかな呼びかけ。

 カガリは涙をこらえきれず、首を横に振る。


「……なぁに?」


 言葉が詰まる。

 今、この時、この腕の中で、

 全てを許せる気がした。


 ツカサが、ほんの少しだけ距離を取る。

 その顔は、いつものぶっきらぼうな無骨さ。

 でも――どこまでも真っ直ぐで、ごまかしのない目。


「もう誰にも渡さねえ。

 ――俺の妻になってくれ」


 それは、思いもよらないプロポーズだった。

 きらびやかな言葉も、飾った態度も一切ない。

 ただ、ツカサらしい不器用な一言だけ。


 カガリの胸が、締めつけられるように高鳴った。

 驚き、歓び、安堵、すべての感情が

 胸の奥から溢れていく。


「――……ほんとに、いいの?

 私、今まで……色々、あったのに……

 こんな私でも、ほんとに――?」


 ツカサは一度も目を逸らさなかった。

 力強く、確かにカガリの手を握る。


「いいも悪いも関係ねえ。

 お前じゃなきゃ、意味ねえんだよ」


 ぶっきらぼうなその声が、

 カガリの心の一番奥まで染み込んでいく。


「……私で、いいなら……私も、ずっと――」


 声が震えた。

 けれど、それは幸福の震えだった。


 次の瞬間、ツカサはカガリを強く、強く抱きしめる。

 世界の全てから彼女を隠すように、

 もう二度と離さないと、身体で語るように。


「好きだ、カガリ。世界中の何よりも、お前が好きだ」


 カガリの涙は、もう止まらなかった。

 それは悲しみの涙ではなく、

 苦しかった夜の孤独が、すべて溶けていく幸福の涙。


 摩天楼の窓の外では、夜明け前の都市が静かにきらめいている。

 だけど、カガリの世界には、

 今、たった一人の男――ツカサだけが光だった。


「――これからは、ずっと一緒だよね……?」

「ああ。何があっても、もう離さない」


 二人の影が、朝の光に溶けていく。

 傷つき、彷徨い、ようやく辿り着いた愛の場所。

 ――それは、世界の誰も邪魔できない、

 たった二人の永遠の約束だった。

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