第39話『渇きに口づけを』

 夕陽が西の空を染める頃、

 雅の屋敷の奥――支配人室。

 静かな障子越しに、遊郭の賑わいだけがかすかに聞こえる。

 部屋の中には、カガリとツカサ、ふたりきり。


 昼間の喧騒も、誰かの視線も、扉一枚の向こうに遠ざかっていく。

 カガリはほんの少し、ゆっくりと息を吐いた。

 自分の場所――自分の城に、ツカサを案内し終えた安堵と、

 どこか体の奥から湧き上がる渇きと熱が、静かに胸を打つ。


 部屋の真ん中、障子からの夕光が畳に金の帯を落とす。

 ツカサは壁にもたれて、腕を組んでいた。

 どこか無骨で、だけどすっかりこの空間に馴染んでいる。

 まるで、この部屋の主みたいに。


(……もう、我慢できない)


 ずっと――みんなの前で微笑むしかなかった。

 雅の女たちの手前、“支配人”として毅然と振る舞ってきた。

 ツカサの隣を歩くと、彼の大きな背中が、体温が、

 どんどん欲しくなった。


(――もう、演じなくていい)


 足が勝手にツカサに向かう。

 心の奥から溢れる渇き。

 ツカサの存在を思い出すだけで、

 身体の芯がうずく。


「ツカサさん……」


 その声は、もう仕事の顔じゃない。

 ただ一人の女として、男に甘える声。


 彼が振り返る瞬間、

 カガリは思わず飛びつくように、彼の胸に抱きついた。

 しがみつく、というよりは、体当たりに近い衝動。


「……どうした?」


 ツカサの低い声。

 けれど、もう理性は効かない。


「ごめんなさい、我慢できなくて……」


 彼の胸板に頬を擦りつける。

 両腕でツカサの体を強く、強く引き寄せる。

 彼の匂い、ぬくもり。

 さっきまで廊下に満ちていた、女たちの視線も囁きも、全部かき消すように。


 ツカサの手が、そっとカガリの腰を抱く。

 無骨な掌なのに、その動きはどこまでも優しい。

 安心と、溶けるような幸福が、同時に胸を締めつける。


「そんなに、渇いてたのか」


「……うん。……あなたがいてくれないと、もう、だめみたい」


 思わず零れる本音。

“支配人”の顔も、“女将”の矜持も、もう全部いらない。


 唇が自然に重なった。

 最初はそっと、けれどすぐに、どちらともなく深く――

 呼吸も、意識も、全部奪われるようなキス。

 唇が重なり、舌が触れ合い、

 互いの体温と欲望が絡みあっていく。


 ツカサの腕が、さらに強くカガリを抱き寄せる。

 彼の体の熱が、着物越しにじかに伝わる。

 心臓の鼓動が、やたら大きく響いて、

 カガリの指先も肩も、無意識に震えていた。


「……誰にも、見られてないよな」


 ツカサの声は、低くて甘い。

 それだけで、カガリの背筋にしびれるような熱が走る。


「ここは……私の部屋。私と、あなたのためにあるの」


 自分でも驚くほど素直な言葉。

 ツカサの瞳が、微かに揺れた。


(この人だけは――全部あげたい)


 キスは何度も重なる。

 最初の戸惑いも、欲望も、

 全部むきだしのまま、ふたりの身体に刻まれていく。


 ツカサの掌が、背中から肩へ、首筋へ。

 着物の衿元が崩れ、白い肌が夕陽に照らされてあらわになる。


「ほんと、俺を夢中にさせるのが上手いな」

「……だって、あなたにしか、こんなふうにならないの」


 部屋の静けさと、外の遠いざわめき。

 その狭間で、カガリの世界はツカサだけに満たされていた。


 抱きしめ合う体温。

 息苦しいほどの幸福。

 このままずっと――時間が止まってくれたら、とさえ思う。


 けれど、もっと欲しい。

 もっと深く、彼のことを感じたい。


 ツカサの耳元で、囁くように告げる。


「もっと、キスして……」


 ツカサは微笑んで、

 何も言わずに、カガリの唇を塞ぐ。


 畳の上、ふたりきりの世界。

 支配人室の壁が、まるで世界の果てのように遠く思えた。


 ふたりの影が、夕陽に長く伸びる。

 渇きを癒すように、何度も深く、深く――

 互いの存在を確かめるキスが続いた。


 熱と、渇きと、幸福と、

 すべてを満たしてくれるような静寂。


 カガリの腕は、ツカサの首に絡まっていた。

 唇が離れるたび、ひそやかな吐息がふたりの間に重なる。

 キスだけのつもりだったのに。

 ただ「渇き」を埋めるため、彼の体温にすがりたかっただけだったのに、

 気がつけばふたりは、互いの身体にどうしようもなく惹き寄せられていた。


(――もう、抑えきれない)


 カガリの指先が、ツカサの首筋から鎖骨へ、シャツの隙間をなぞる。

 彼の呼吸が浅くなり、腕が彼女の背中をぐっと強く引き寄せた。


 ツカサの手のひらは、カガリの肩から背へ、

 布地越しに、熱を帯びた手のひらが静かに、しかし確実に彼女の輪郭を撫でていく。

 ゆっくりと、慣れたようでいてどこかぎこちない。

 それは“奪う”でも“試す”でもなく、

 ただ「確かめ合う」ための、優しい愛撫。


「……キス、だけのつもりだったのにな」


 ツカサが低く囁く。

 その声に、カガリの心臓がきゅっと締めつけられる。


「私も……そう思ってたのに。あなたがいると、全部、崩れる……」


 その言葉の途中で、再び唇が塞がれる。

 何度も、何度も――

 まるで、お互いの渇きをそのまま交換し合うような、深くて甘いキス。


 やがて、ツカサの手がカガリの腰を引き寄せ、

 彼女の帯をそっとほどいていく。

 帯の隙間から、やわらかな着物の布がふわりと畳に落ちる。


 畳の冷たさと、ツカサの掌の熱が同時に背中を撫でていく。

 カガリは少しだけ恥じらい、でももう抗えない。

 ツカサの指先が、首筋から肩、鎖骨へと伝い、

 やがて胸元をそっと包む。


「……あんまり、煽るなよ。抑えきれなくなる」

「いいの、もう……抑えてほしくない。

 ずっと、我慢してたから……あなたに、全部、満たしてほしいの」


 ささやくようなカガリの声に、ツカサの目が一瞬、獣のような光を帯びる。


「お前、ほんとに……支配人なのに、可愛い顔しやがって……」


 その言葉は、からかいのようでいて、

 どこか本気の嫉妬と独占欲がにじんでいた。


 カガリは、ツカサの胸元に顔を埋める。

 その大きな体を両腕で抱きしめ、

 自分の熱も、震えも、すべて委ねていく。


「ねぇ、もう一度、キスして……」


 ツカサは何も言わずに、

 ただ静かにカガリの頬を両手で包み、

 深く、深く、息もできないほど長いキスをした。


 その間、ふたりの手は絶えず動き続ける。

 カガリの指は、ツカサの髪を梳き、

 シャツのボタンを外して、彼の肌に直接触れた。

 筋肉の起伏、体温、男の香り。

 彼だけのもので、こんなにも満たされるなんて――

 そう思うだけで、息が苦しくなった。


 ツカサの指先は、カガリの首筋を撫で、

 肩を、背中を、

 まるで宝物を扱うように、

 ひとつひとつ確かめるように、愛撫していく。


 着物の隙間から、下着越しに指が滑り込む。

 カガリの身体が、小さく跳ねる。


「……やっぱり、感じやすいな。

 俺以外にも、こんな顔見せてたのか?」


 その言葉に、カガリは首を横に振る。


「違う……あなたにしか、こんなふうにならない。

 あなたといると、全部崩れちゃうの……」


 ツカサは微かに微笑んで、「そうか」とだけ呟く。


 畳の上、ふたりの熱だけが高まっていく。

 キスが、愛撫が、

 もうどこまでが始まりで、どこまでが終わりなのかわからない。


 唇と唇が重なり合い、

 指と指が絡み、

 肌と肌が、着物とシャツのあいだから忍び寄る。


 カガリはツカサの胸に頬をすり寄せながら、

 体中の感覚がどんどん溶けていくのを感じていた。


(……こんな、幸福があるなんて)


 どんなに抱きしめ合っても、足りない。

 何度キスしても、まだ渇く。

 互いの熱が、いつまでも尽きることなく溢れていく。


 扉の向こうの世界がどれだけ賑やかでも、

 この瞬間だけは、ふたりだけのもの。

 畳に落ちる影が、ゆっくりと長くなっていく。


(もう、どうなってもいい――

 ただ、あなたと溶け合ってしまいたい)


 カガリの熱い吐息、

 ツカサの低く甘い声、

 指先が肌をなぞるたび、

 ふたりの愛はさらに深く、さらに激しく重なっていった。


 まだ、唇も指先も、名残惜しさに溺れて、

 名実ともに「ふたりきり」の時間が――

 この支配人室に、ゆっくりと夜の帳を下ろし始めていた。

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