第31話『玄関で、理性が死んだ』※
──夕暮れ。
統樹本社ビルの最上階――副総帥室。
外は既に茜色。
広々としたオフィスの一角で、カガリは静かにツカサの背中を見つめていた。
ガラスの壁越しに見える都市の明かりが、夕空と混じり合い、まるで現実と夢の境界をぼかしていく。
ツカサは、デスクに山積みの書類と格闘している。
時折ペンを走らせ、時折パソコンに向かい、
誰の目にも完璧な仕事人の顔だった。
(……今日一日、ほとんど触れあっていない)
思い返せば、朝のリムジンで指を繋いだのが最後だった。
出社、会議、視察、食事、また会議、そして膨大な書類仕事――
ツカサは一日中、誰かのために動き続けていた。
カガリはその横をついて回るだけで精一杯だった。
(昨日は、あんなにも求められて……)
胸の奥が疼く。
昨日の夜、二人だけの部屋で、何度も何度も繋がった。
今も身体の奥に残る余韻と、
「この人にだけは何もかも預けたい」と思えた幸福な記憶。
だが今日は、その熱に触れられないまま、
心だけが乾いていく。
どうしようもなく、我慢できなくなって――
カガリは立ち上がった。
カツン、とハイヒールの音が床に響く。
ツカサの背中まで、ほんの数歩。
忙しそうな彼の邪魔になるのは分かっている。
けれど、渇きと寂しさが、その一線を超えさせた。
そっと、背中に両腕を回す。
「……あと少しで帰宅だぞ?」
ツカサは少し驚いたようだったが、すぐに声色が和らぐ。
「もう、何時間も待ったもん……膝枕も、してないし……」
自分でも呆れるほど、情けない声だった。
けれど、素直な本音しか出てこない。
渇きも、熱も、全部この人に向けてしか表現できない。
ツカサの肩に顔を埋める。
スーツ越しに伝わる体温が、じんわりと自分を溶かしていく。
「……甘えん坊はカガリのほうだったな」
低く、からかうような声。
でも、振り払う気配は微塵もない。
むしろツカサは背中の腕にそっと手を重ね、
片手でデスクの書類を片付けながら、カガリの気持ちに寄り添う。
(……こんな私でも、ちゃんと受け止めてくれる)
欲しさが、募る。
胸の奥が、渇いて渇いてどうしようもない。
我慢できずに、ツカサの首筋にキスを落とした。
初めはそっと、
二度目はもう少し強く、
三度目は唇で、確かに彼の温度を感じるように。
「……っ、カガリ」
ツカサの声が少し掠れる。
その声に、今度は自分から彼の頬を撫で、
振り向いた瞬間、唇を重ねた。
(……もう、駄目)
書類の山も、仕事も、
今だけは全部忘れてほしかった。
デスクに積まれたファイルの向こうで、
オフィスの奥には、誰もいない。
夜間の静かなフロア、外の灯りがオレンジ色の影を描く。
カガリは、せがむように、
ツカサの顔を両手で挟み込んだ。
「……ねえ、もう少しだけ。……足りないの。全然、足りない」
掠れた声。
女として、恋人として、ただ一人の男として。
「あなたじゃなきゃ駄目なの」と言いたかった。
ツカサは、目を伏せて短くため息をつく。
けれど、あきれたように笑う。
「やっぱりカガリに秘書は無理だな。副総帥夫人のほうがいい」
そう言って、彼はカガリの手をぎゅっと握り返した。
「……待ってろ。すぐ終わらせるからよ」
その声は優しくて、
でもきっぱりと男の決意が宿っていた。
カガリは背後から彼を抱きしめたまま、
ぴったりと身体を寄せる。
ツカサは最後のサインを滑らせ、
机の上の書類を片付けていく。
その動き一つ一つに、カガリは目を奪われる。
(こんなにも誰かを求めるのは、きっと初めてだ)
自分の指先が、ツカサの胸元のボタンをなぞる。
髪に、首筋に、顔に――
昨日の熱が蘇るたび、身体の奥がしびれる。
ツカサの仕事が一段落すると、
ようやく彼は椅子ごと身体をこちらへ向けた。
「……待ったか?」
その言葉に、カガリは思わず、
今度は正面からしがみつくように抱きつく。
「……うん。すごく、待った」
「じゃあ、帰るか。――その前に」
ツカサは、カガリの髪をそっと撫で、
額に、頬に、唇を落としていく。
「お前の膝枕、帰ったらもらうからな」
冗談めかした声色の奥に、
本気の熱が滲んでいた。
窓の外、都市の夜景がきらめく。
書類の山も、冷たいガラスの壁も、
今この瞬間だけは、
ふたりのためだけに存在する舞台装置だった。
渇いた心も、乾いた肌も――
全部、ツカサが潤してくれる。
(この人の「夫人」になりたい)
そんな新しい渇きと願いを胸に、
カガリはもう一度、ツカサの首筋にキスを落とした。
―――
──夜の帳が完全に街を包み、
ツカサの自宅マンションのエントランスには静かな闇と煌びやかな明かりが共存していた。
そのエレベーターの中、カガリの鼓動は激しく波打っていた。
ようやくたどり着いた66階のフロア。
解錠の電子音。ドアが静かに閉まるや否や、
カガリの理性は、もう何かに急かされるように弾けていた。
――玄関。
まだコートも脱がず、靴もそのまま。
背の高い男の胸に飛び込むように、カガリはツカサの首に腕を絡める。
ぐっと体を密着させて、まるで逆壁ドンのように、
自分より大きな体をドア際に追い詰める。
「……ツカサさん……」
唇が触れ合う寸前、カガリは一瞬息を呑んだ。
そのまま、貪るように口づける。
柔らかな唇がぶつかるたび、昨日よりももっと深く、もっと激しく――
愛情も、欲も、寂しさも、全部をぶつけるみたいに。
ツカサはその勢いに、ほんの少し驚いたように眉を上げた。
だが、次の瞬間にはもう大きな手がカガリの背をしっかりと抱きしめていた。
(……なんで、こんなに“好き”が溢れて止まらないんだろう)
理性も羞恥もどこかへ消えてしまう。
唇を塞ぎ合い、息が苦しくなるほど、
舌が絡み合い、噛みつくように名残惜しく唇を吸い合う。
「……なに泣きそうな顔してんだよ。お前が泣くと、俺の理性まで死ぬ」
ツカサの低い囁きに、
カガリはもう、涙が滲みそうだった。
愛されたい。抱かれたい。全部、壊されてもいい。
「じゃあ……私も殺して?……ツカサさんの全部で、私の心も身体も……殺してほしい……」
その言葉に、ツカサの眉間がぐっと寄る。
ほんの刹那、彼の中の理性と本能がぶつかり合い、
だがその迷いはすぐに断ち切られる。
荒々しいほどの力でカガリを抱き寄せる。
もう一度、強く――
首筋をなぞるように、耳元へ唇が落ちる。
「……だったら、覚悟しろよな」
最後の理性が消える。
唇が塞がれ、
呼吸も魂も奪われてしまいそうなほど、熱く、長いキス。
舌を絡めるたびに、
口の中の温度があがり、喉の奥から艶やかな吐息がこぼれる。
(……ほんとうに、命を吸われるみたい)
唇の端を舌先でなぞられ、甘く痺れる感覚。
腰の奥がぞくりと疼き、全身がツカサの欲望に浸されていく。
もう靴もコートもどうでもよかった。
ただ、「いま」「ここ」で触れてほしい。
愛されたい。
「全部」をツカサに明け渡したい。
彼はカガリの両膝の裏に腕を回し、
そのまま軽々と持ち上げた。
「……わ」
重力がふっと消え、視界が大きな胸板に埋まる。
カガリは思わず首にしがみつく。
ツカサの足取りはまっすぐ寝室へ――
通路もリビングも、すべてがふたりの熱に霞んでいく。
廊下の壁がすべて高級な漆黒のパネルで覆われ、
さりげなく間接照明が灯るたび、
カガリの肌もツカサの輪郭も、
闇のなかで金色に浮かび上がる。
寝室の扉が閉まる音。
柔らかく沈み込むベッドの感触。
ツカサはそのまま、カガリをシーツの上に下ろした。
スカートが乱れ、タイツの足がさらけ出される。
コートも肩から落ち、胸元がはだける。
「……昨日よりもずっと、好きになった」
息を切らせ、カガリは小さく呟く。
「お前な……人の理性を試すなよ……」
ツカサの手が、喉元から胸元へ。
指先が肌をなぞるたび、
そこに火が点いたように感覚が研ぎ澄まされていく。
「もう限界なんだ、俺も」
言葉と同時に、
ツカサの手が髪をかきあげ、顔を引き寄せる。
唇がまた重なる。
今度はさっきよりもずっと深く、
カガリの舌の奥まで、荒々しくも熱を伝えてくる。
「――殺してやるよ、俺の全部で」
言葉とともに、
コートもシャツも一枚ずつ剥がされていく。
(――全部、壊れてもいい)
カガリはツカサの手を自分の頬に当て、
彼の体温を心の奥まで流し込む。
服が乱れ、シーツの上に滑り落ちる。
指先、唇、舌、
すべての感覚が混ざり合い、ひとつになっていく。
「好き、好き、好き……」
カガリの声が、熱と涙で震えながらベッドルームに溶けていく。
ツカサの手が、背中を強く引き寄せる。
脚を広げ、身体の奥深くまで、
彼の「全部」を受け入れる瞬間。
快楽と幸福が幾重にも重なり、
熱い涙がこぼれ落ちる。
(これ以上ないほど、好きになってしまった)
体も心も、
全部ツカサに殺されて、
生まれ変わるような夜だった。
ベッドの上で、
ふたりの影が幾度も重なり合い、
溶けあっていく。
夜はまだ、終わらない――
命を吸い尽くされるようなキスは、
幾度も幾度も繰り返される。
そして、
壊れるほどに愛される幸福のなかで、
カガリはただ「ありがとう」「大好き」と心の奥で何度も何度も呟いていた。
――窓の外、
深い夜色のなか、都市の灯りがふたりを見守っていた。
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