第30話『その背中が、仕事場だった』

 ──1日が過ぎていくスピードが、まるで季節を丸ごと駆け抜けていくようだった。


 午前の会議が終わったあとのツカサは、

“副総帥”という肩書きそのままの多忙さで社内を駆け巡っていた。

 カガリは、ただその背中を追いかけるだけで息が切れるほど。

 けれど、一度も「置いていかない」ことだけは、ツカサの流儀だった。


 エレベーターで最上階から地下へ――

 今度は車に乗り込んで、新オープン予定の統樹グループ直営サロンへ向かう。


 運転手が手際よくドアを開けると、

 ツカサは必ずカガリの手を取る。

 「足元、気をつけろ」と、さりげなく声をかける。

 それだけで、カガリは慣れないヒールでも転ばずに済んだ。


 サロンのエントランスは、

 本社ビルにも劣らぬ“美”の空間だった。


 天井高の大きなガラス張り。

 大理石の床。

 柔らかい間接照明。

 フレグランスがわずかに漂い、

 美しく着飾ったスタッフたちが、背筋を伸ばしてツカサの来訪を迎える。


「副総帥、わざわざ……」

「気にすんな。視察だ。……どうだ、オープン準備は」


 ぶっきらぼうにそう言いながらも、

 一つ一つ、細部まで目を光らせていく。

 新しい設備やメニュー、

 カウンセリングルームの座り心地、

 スタッフの表情や所作、すべてを細かく観察していた。


「ここの照明、やや強いな。施術ルームはもう少し暖色に振ったほうがリラックスできる。

 香りも、オープン直後はもう少し柔らかく。顧客によって変えるのも忘れんな」


 メモを取るスタッフに対しても、ツカサは細かく、時に手本まで示してみせる。


「ほら、この椅子。体重のかかり方で座面の沈みが変わるだろ。女性なら腰と太腿の間に違和感出るから、クッション入れとけ」


 その言葉一つ一つに、現場のスタッフも感嘆の表情を見せる。


(……本当に、“美”に命を懸けている人なんだ)


 カガリは、ツカサがどこまで徹底してこの世界を見ているのか、初めて肌で感じていた。

 見た目も、空間も、香りも、座り心地も。

 美しさだけでなく、“居心地”と“幸福”を徹底して追及する。


 気がつけば、サロンのスタッフたちもツカサに敬意を隠せなくなっている。

 ぶっきらぼうなのに、説明は的確。

 無駄がなく、でも「現場の努力」には必ず目を向けて言葉を添える。


「……手抜きはしなくていい。ただ、頑張りすぎて身体壊すな。

 誰か一人に負担がかかってたら、開店後すぐガタが来る。皆でシェアしろ」


 スタッフが笑顔で頷くと、ツカサもほんの一瞬だけ、柔らかい表情を見せた。


 ―――


 サロン視察のあとは、再び本社ビルへと“とんぼ返り”。

 移動の車内で、ツカサはスマホで何件も連絡をとりながら、

 空いた片手でカガリの膝をそっと撫でる。

 それは無意識の癖のようだった。


「いっつもこんなに大変なの?」


 カガリが、思わず本音をもらす。

 ハイヒールを脱いで、そっと足を揉む仕草を見せると、

 ツカサは短く笑った。


「――まあ。な。出社は週2日だけ。それ以外はリモートってことにしてる。

 代わりに出勤しないといけない分、全部詰め込まれてる」

「それ、……身体壊しそう」

「壊さねぇよ。リモートの日はほとんど引きこもりみてぇなもんだ。

 ……でもまあ、外で顔出さなきゃ締まらねぇ案件が山ほどあるんだよ。

“副総帥”って肩書きは、顔見せるためのもんだからな」


 疲労の色を隠すように、

 ツカサは窓の外を見やった。


(それでも、この人は弱音を吐かない)


 本社ビルに着くと、

 ツカサはそのまま社員食堂に直行した。

 カガリも、その後を追う。


 食堂の中もやはり、美しさに満ちていた。

 料理は色鮮やかに盛られ、栄養バランスと味にまでこだわりが感じられる。


「……食べたいもの、選べ」


 ツカサは、カガリにも選択肢を与える。

 それは「副総帥の女」だからでなく、「女」として大事にされているのだと、

 カガリは素直に思えた。


(たくさんの人がいるのに、私だけが“選ばれて”いる)


 食事中も、ツカサは時折視線をくれる。

 話しかけられるたび、カガリは自分がこの人の「特別」になれたような錯覚を抱く。


「食べ終わったら少し休憩しろ。

 午後も現場回るし、書類の山だ。……手伝わせるかもしれん」

「……はい、ツカサさん」


 カガリは、目の前の料理を一口、ゆっくりと味わった。

 美しい空間、効率と厳しさの中にも必ず配慮を忘れないツカサ。

 たった一日の“見学”だけで、

 この人の隣で生きることの難しさも、

 その奥に隠れた優しさと責任感も、

 強く、深く、感じていた。


(――私も、早くこの人の「隣」に、ちゃんと立てるようになりたい)


 そう、強く願いながら、

 カガリはもう一度ツカサの背中を見つめ直す。

 どこまでもまっすぐで、どこまでも美しい、その背中を。


 ―――


 午後――

 本社ビルの窓には、太陽の角度が変わり、うっすらと街並みが橙色に染まりはじめていた。

 だが、その温かな光さえも、統樹スタイル・ソリューションズのフロアではただの「演出」に過ぎない。

 ビルの内部は、朝からずっと張り詰めた美と秩序、緊張の空気で満たされていた。



 食堂で昼食を済ませたのも束の間、カガリは再びツカサの背中を追う。

 今度は午前よりもさらに速い歩調だ。

 移動中も、ツカサは絶えず誰かに声をかけられ、資料を手渡され、何かを決断していく。

 まるで目に見えない糸で何重にも会社を動かしているようだった。


「14時から会議。……隣、頼む」


 エレベーターホールの前で、ツカサは短くそう告げた。

「頼む」というのは、おそらく「隣に居てくれ」ということだ。

 カガリはタブレットを手に、無言で頷いた。


 会議室のドアが開かれると、

 そこには午前の会議とはまた違った緊張感があった。

 今度は新サロン事業の役員会議――ブランド戦略、内装、サービス、広報など、より具体的な議論が飛び交う。


 出席者は男女問わず、驚くほど顔が整っている。

 けれど、「美しいだけ」の人間は一人もいない。

 発言の端々に、熱意、知性、そしてこの会社でのし上がってきた自負が滲む。


 ツカサは、議論が膠着しそうになると、

 たった一言で流れを変える。


「……“美”を売りにするなら、本質を見失うな。見た目だけじゃリピートしない。

 居心地も、スタッフの意識も、“美”をサポートする空気を作れ」

「コストは削れ。だが一番高いサービスにだけは金をかけろ。そこが“旗”だ」


 発言が終わるたびに、場の空気が引き締まる。

 部下たちの表情に畏敬と競争心が交互に浮かぶ。


 カガリは、そんな会議の一つ一つをタブレット越しに見つめていた。

 次々に流れていく会議資料。

 プロジェクターで映されるグラフ、数値、戦略案。

 ツカサの眼差しは、決してどれも見逃さない。



 会議が終わったのは15時過ぎ。

 息をつく暇もなく、ツカサは再び「視察」に出かける。

 今度は新ブランドの企画ラボ、まだ一般公開されていないフロアだ。


 エレベーターで下層階へ。

 扉が開くと、そこには研究者たちとデザイナーたちが集まっている。

 白衣の上からでも分かるほど、どのスタッフも洗練されている。

 美に対する熱量が、ここでも空気を震わせていた。


「現場の声、聞かせろ。

 何が足りない?何が課題だ?」


 ツカサは短くそう問いかける。

 その声に、スタッフたちは緊張しつつも、真剣に意見を述べる。

 最新の生地、香り、設備――

 現場で起きている問題も、未来の可能性も、すべてを吸い上げようとする。


「……新素材はコスト高。現場に落とし込めるか、要検証です」

「OK。じゃあ俺が直で取引先と話す。

 現場を最優先にしろ。二次試作は3日後までに出せるか?」

「はい、副総帥!」


 部下たちの声が弾む。

 そのたびに、ツカサは冷静に指示を出す。


 カガリはその後ろで、必死にメモを取っていた。

 会議の端末からチャットが何度も飛び交う。

(――これが「統樹」の現場なんだ)


 ツカサの動きは、どこまでも無駄がない。

 けれど、全てを「自分一人」で背負い込んでいるわけではない。

 現場に判断を委ね、失敗も学びとして吸収させる。

 成功体験はスタッフごとに讃える。


「……よくやった。今日の分は経費で落とせ。

 明日以降の段取り、俺が上に通しておく」


 短い言葉が、現場を包み、熱気が一層高まっていく。


―――


 夕方が近づき、ツカサとカガリは再び本社へ戻った。

 時刻は17時を回っている。


 それでもツカサは休まない。

 書斎のような個室オフィス――

 ガラス張りの壁の内側で、次々と押し寄せる書類にサインを入れる。


 カガリは少し離れたソファで静かに待っていた。

 タブレットに目を落としながらも、

 時折、ツカサの横顔に視線を送る。


 目を細め、唇を噛みしめながら、

 ペンを走らせる男。

 時折、肩を回し、眉間を指で押さえている。

 その姿に、カガリは胸が締め付けられるような愛しさを感じた。


(本当に、すごい人……)


“膝枕の時間”すらなかった。

 冗談めかして言った約束も、

 今日ばかりは叶う隙間さえなかった。


 けれど、どれだけ多忙でも、

 ツカサは何度もカガリに目をやり、

「大丈夫か」「疲れてないか」とサインを送る。


 カガリはそれに微笑みで応えた。

 自分はただ、そばに居ることしかできないけれど、

“この人の隣にいる”ことこそ、今の自分にできる最大の“仕事”だと思った。


 窓の外には、夕焼けがにじんでいる。

 やがてビルの照明が灯り始め、

 統樹グループの一日はまだまだ終わらない。


(少しでもこの人の力になれるように)


 強く願いながら、

 カガリはツカサの背中を見守り続けた。


“美”と“効率”、そして“愛しさ”が交錯する午後――

 たとえ膝枕の隙間がなくても、

 二人の距離は、

 一歩ずつ、確かに近づいていくのだった。

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