第51話 プロポーズ未満

 書庫は、湿った空気と古い紙の匂いが満ちていた。天井まで届く書棚には、背表紙が日焼けしたり傷ついたりした分厚い本が隙間なく並んでいる。多くは歴史書や魔法理論、そして植物図鑑など、実用的な学問に関するものだった。窓際には、使い込まれた小さな机が一つ置かれ、その上には開かれたままのノートと、何本かのペンが乱雑に置かれていた。


「ここで、普段は何してるの?」


「勉強とか魔法の特訓」


 使い古した机を撫でていると、その手をシヴァが掴む。振り返ると、彼は俯いていたまま口をパクパクさせている。


「リリー。あの、な……」


「うん」


 何が言いたいのか、彼の言葉に耳を傾ける。普段本心を言わない分、こういう時言葉が出てくるのに時間がかかるのは、今までの経験上分かっていた。


「オレ、さ。……リリーが好きだ」


「……うん」


 何故か無償に泣きたくなった。ついこの前、小さく呟いただけで、こんなにはっきり好意を口にされたことは無い。


「だから、本当は……リリーを誰にも渡したくないんだ」


「うん。私も同じだよ」


 繋いだ手に力が入る。私は気にせず笑顔を返した。


「本当は、アレクサンド殿下にも、取られたくなくて。でも、婚約者なのは分かってる」


 シヴァの手に一層力が籠められる。


「リリーが婚約解消のために動いてるのは分かる。だから……」


 彼の瞳の奥に、強い決意の光が宿るのが見えた。




 「オレも一緒に頑張りたい。婚約解消して、ずっと一緒にいよう!」


「うん!」




 大きく頷くと、顔を真っ赤にしたシヴァが抱きしめてくれる。私はそれを受け入れると彼の背に手を回した。いつもと違う恰好なのに、彼の体温も匂いも、何一ついつもと変わらない。


「本当は、結婚だってしたいんだ。リリー」


 どこまでも、いつまでも、私が大好きな彼のままだ。


「でも、今のままのオレじゃ、ダメなのは分かってる……絶対、何か方法を見つけてやる」


 そんな彼から、まっすぐ好意を寄せられることがこんなに嬉しいとは思わなかった。




「もしもその時が来たら、プロポーズを受けて欲しい」




 その言葉は、今の私達にとってはプロポーズと同等の意味を持つ。そんな言葉が嬉しくて、身体が小さく震えるのが分かった。


「もちろん! 私、シヴァ以外のプロポーズなんて絶対了承しないんだから!」


 一度体を離して、力強く返事をする。明るい私の表情を見て、シヴァは満面の笑みを見せた。笑うとえくぼができるようで、その顔はとても愛らしい。つい、私は彼の頬をそっと撫でてしまった。

 シヴァは驚いたように目を見開いている。空色の瞳が、徐々に近づいてきた。……えっと、これがキスシーンというやつなんだろうか。前世でも恋人がいたことがないから分からない。戸惑いながらも、思わずぎゅっと目を閉じた。

 たぶん、これでいいはずだ。見なくても、シヴァの熱い体温が近づいてきているのは分かる。もう、唇が振れるんだろうなと息を止めていた。


ひゅ~……ドォン!


 外からの大きな音に、私達は慌てて目を開けた。カーテンで窓の外が見えない。体を離すと、シヴァは小走りで窓に近付きカーテンを開けた。 窓からは、学園の古びた校舎の屋根が見え、その向こうの薄暮の空にはまばゆい光の花火が次々と打ち上がっていた。


「……えっと、最終日終了の花火が打ち上がってるな」


「……それ、完全に大遅刻じゃない!!」


 私達は慌てて部屋を出る。カーテンを閉めるのを、シヴァは忘れなかった。馬車に戻り、魔法を解いてもらうと私だけ先に走り出す。もうこうなったら、校舎内も走るしかない。


「皆様、これにてリヒハイム王立学園祭を閉会いたします。三日間にわたり――」


 校内放送でアレクサンドの声が響く。うわー、本当にヤバい! 焦っていると、いつかのように後ろから来たシヴァが私をお姫様抱っこする。先程のキスシーン未遂もあり、恥ずかしくて彼の顔が見れなかった。シヴァも同じなのか、一言も発しない。

 廊下を滑るように素早く移動し、会議室の前に着くと、ドアの前には仁王立ちしているイザベラがいた。彼女の表情は、完全に固まっていた。私達の姿を見ると、彼女は頬を膨らませる。怒っているようだが可愛らしいと思うのは贔屓目だろうか。


「……こんな遅くまで、一体何をしていたのかしら?」


「……ご、ごめんなさい」


 もう放送が始まっているから、中には入れないのだろう。小声で注意されて、私も小声で謝罪する。放送が終わるのを待って会議室内に入ると、私はすぐさま土下座した。






***






 三日間の学園祭が終わり、学園内はいつもの落ち着きを取り戻した。だが、学園祭での思い出に花を咲かせているのか、今までよりも少し活気がある。婚約者がいなかった人にも、学園祭を通じて恋人ができたりしたようで、ちらほらとカップルを見かけることが増えたように思う。

 そんな中、私達はまだあの会議室にいた。大きなオーク材の長机には、最後の精算書や報告書が山積みになっていた。季節は冬に近く、日が暮れるのが早いため窓の外はもう完全に日が落ちている。会議室の照明の光が、書類と格闘する皆の顔を照らしていた。みんな、学園祭の疲れと最終業務のプレッシャーで、微かに疲労の色を滲ませていたが、誰もが黙々とペンを走らせていた。


「……もう、つっかれたー! ねえ兄上。これ今日中には終わらないって」


 最初に音を上げたのはレオナルドだった。耐えきれなかったのか、机の上の書類を散らかしてしまう。彼の言葉に、全員が筆を止めた。もう疲労が限界なのだ。皆が一斉にアレクサンドを見る。


「そうだね。確かに昨年も、一週間くらいはかけたんだ。今日はここまでにしよう」


「あの、期限が一週間と決まっているんですか? この後も各クラスから追加の予算報告が上がるでしょうし、10日くらい余裕を持ってみても良いのではないでしょうか」


 手を上げてヤコブが発言する。なんていいことを言ってくれるんだ! 期待を込めてアレクサンドを見ると、少し悩んでいた。その視線がチラッとイザベラの方を向く。急に視線が合い、戸惑った様子を見せながらイザベラは笑みを返した。


「……うん、確かに疲れているようだし、先生方に期限が延ばせないか聞いておくよ」


 解散の合図で各々が席を立つ。私は話したいことがあったので、慌ててヤコブの後を追った。その私の後を、会議室の前で待機していたシヴァが追ってきた。

 暗くなった校舎内は、既にほとんどの生徒が帰宅してしまい、ひっそりとしていた。廊下の照明は点いているものの、人気がないために昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。片付け残りの道具や、剥がされた装飾の切れ端が、わずかに学園祭の熱狂の残骸を物語っていた。


「ヤコブ」


「リリアンナ嬢? 何かありましたか?」


 ヤコブは私の声を聞いて振り返った。後ろのシヴァも一定の距離を保ってついて来てくれる。


「ね、ね! どう思う?」


「どうと言われましても……何が?」


 どうにも察しが悪い。耐えきれず、私の方から答えを言った。


「アレクサンド様とイザベラのことよ! なんか、違ったと思わない?」


 学園祭以降、どうにもアレクサンドがイザベラを見ることが増えたのだ。先程のように、一瞬ではあるが視線をイザベラに向ける。さすが王族のポーカーフェイスなので、それ以上の変化は私には分からない。でも、何か違う気はするのだ。


「えっと……こじつけようとしているとかではなく?」


「こじつけじゃないわよ!」


「妄想」


「でもないわ」


 何とも失礼だ。私の言葉が信じられないらしい。


「いいから! ちょっと観察してみて」




「……言われてみれば?」


 翌日の帰り。二人で話をするため、今日はシヴァを馬車で待たせてある。昨日と同じく二人で話していると、ヤコブは首を傾げながらそう言った。


「いえ、そんなに元々観察していたわけではなかったのであまり違いが分からないんですが」


 ヤコブは腕を組み、うーん、と唸った。


「瞬間的にイザベラ嬢を見ていることが多い気は確かにしますね」


「でしょう!?」


 私は一歩ヤコブに近づく。


「これで、アレクサンド様がイザベラを気に入ってくれたら、婚約解消もスムーズになるかしら?」


「そう簡単に行きますかねぇ」


 ヤコブは少し呆れたような表情を見せた。しかし、すぐに何かを思いついたのか、私を見る目が好奇心をはらんだ視線に変わる。


「何か策でもあるんですか?」


「婚約の理由ってソプレス王国が反乱を起こしそうな所にあるそうなの。だから、反乱が起きないように待遇改善しているのよ。完全に鎮静化して、その功績が認められれば、婚約者でいる理由も無くなる」


「ソプレス王国、ですか……」


 ヤコブは歩きながら何かを考えこんでいた。少し時間を置いて、彼は口を開く。


「ゲーム本編で、反乱が起きてその時にヒロインが活躍する……それが、メインストーリーだったことは覚えていますか?」


「ええ。ソプレス王国のことだと思ったから、頑張ってるのよ」


「正解です。……それなら、一つヒントを」


 私を横目で見ながら、ヤコブは人差し指を口元に当てる。内緒話をするような仕草だ。薄暗い中、彼の眼鏡がきらりと光った。


「反乱を起こす前に止めたいのなら、もっと詳しく調べてみて下さい」


「ソプレス王国についてってこと……?」


「ええ。きっと何かが出てきますよ」


 そう呟くヤコブの目は、我が子を見るかのように優しかっ

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