雨宿り

肩が重い……


校門をくぐりぬけた後も、島村の言葉がずっと耳に鳴り響いていた。

頬に触れるたび、あの柔らかい感触がまだ貼りついている気がする。風呂に入っても消えなかった。

ベッドに横になり、無意識に指でなぞる。

何も跡はないのに、そこだけ別の皮膚のように感じる。


スマホに流している動画は一切耳に入らない。

視界の隅に色だけがぼやけていた。


島村は、俺のことが好きだ……


脳裏によぎるそのことと同時に、物置部屋で見せてきた胸肌とのぞき込む薄いピンクの布の映像が浮き出る。


今までだとすぐに困惑する映像は、不思議と俺は受け入れていた。


「……やっべ…」


深いため息が漏れる。

気がつけばもう1時になっていた。

頭の中がずっとキスのことと彼女の言葉を再生し続けていた。


頭痛のような鈍い痛みがこまめに滲んだ。


本来なら舞い上がるはずの出来事なのに……

…はぁ…… 喉乾いたなぁ…


瞼が重いのに、流れる映像が無慈悲に眠気を蹴散らしていく。


……もういいや…なんか飲もう…

諦め半分で重い腰を上げて、部屋を出た。


ジュースでも水でもいい。とにかく何かを喉に流し込みたかった。

――この胸のざわつきも、一緒に流れてくれればいいのに。


リビングのドアに近づくと、物音がゴソゴソと耳に届く。

ドアを開けると、冷蔵庫の明かりに照らされたぼさついた髪がカウンター越しに覗きでる。


鈴子はミルクのカートンを取り出して、手探りでコップを探していた。


「…何してんだ?」


「んー…ミルク…阿木にぃこそなに…?」


目が半開きで眠たそうな顔に俺は鼻で笑いそうになった。


俺がコップを渡すと、鈴子は小さく会釈してミルクを注ぐ。


「兄ちゃんも喉が渇いたんだ」


「ん…そっかぁ…このミルクあげない…」


「いや、誰も取らねえよ…」


大事そうにカートンを胸に抱きしめて顔をむっとした。

半分寝落ちの顔に加えて、今度は笑いを堪えきれなかった。


しばらく暗いキッチンの中で俺たちは並んで飲み干す。

一度、タイミングが重なったようにコップを傾ける。

ーーくだらないのに、妙に親近感がわいた。


「真似すんな…」


「お前もな」


まったく…

互いに呆れた一息を漏らす。けれど、それと同時に肩の重さはいくらかふっと軽くなった。

さっきまで頭を占めていた島村の映像と声が、少しだけ遠のいていた。


それに気が付いた時には、思わず鈴子の方を見る。


ふらふらと立ち尽くしている俺の妹は、今にもバタンと倒れそうだった。


…寝かしつけようか。


「ほら、もうミルク飲んだし、寝ろ」


「…おんぶ…」


「何歳なんだよ…」


「12才のレディー」


鈴子はコップとミルクカートンを台所に置くとこっちに両手を伸ばしてきた。

呆れながらも、仕方なく抱き上げる。

そろそろ中学生というのに、意外とまだ軽かった。


甘えん坊なんだな、俺の妹は。


そのままキッチンを後にしながら、鈴子の息がゆっくりと落ち着いていく。


耳に届く静かな寝息が、胸のざわつきを鎮めてくれるようだった。


ベッドに寝かせると、無防備な寝顔が妙におかしくて、思わず小さく笑う。

起きている時は変にプライドが高いくせに…こうして見るとかわいいところもあるんだなーー知ってたけど。


俺の笑いに反応したか、顔を向けてくる。目は半開きなまま、手招きする。

なんか言いたいかと思って屈んで見ると、鈴子はその手を拳に握り軽く頬をこづいた。


「…お礼…」


生意気な…


頬を抓ろうと手を上げると鈴子はすぐに布団に潜った。小さく笑いながら「やめろ、もう寝てって…!」と俺を追い返した。


今回はこれで見逃してやろう…


部屋の扉を閉めながら「おやすみ」とだけ残した。

そして自分の部屋につくと、頭はだいぶ澄んでいた。


ふとスマホを見る。

時刻は「01:30」。ロックを解除すると、島村とのラインのメッセージ欄が開いていた。

最後に書いてあるのは、今日のプリント運びを頼まれた一文だった。


指は文を打ち込もうと返信欄に浮いたが、そのまま止まる。


「さすがにもう遅いよなぁ…」


少しだけ上に遡る。特に意味のある行動ではなく、無性にやり取りを見返してみたくなった。

送られた短い文や、ちょっとした絵文字。

何度も見ているはずなのに、目は自然とそこに吸い寄せられる。


そして、目が通話の履歴にとどまった。


(勃起不全…)(ーー治す気は、まだあるのよね?)


脳裏にうかびでるのはその時の彼女の言葉だった。


口を細めて、額にしわが寄ったのを感じる。


そういえば、今週中に問診しようって話あったな…あれは、結局どうなるんだろう…


またため息が漏れるが、今度は少なくともやれることが一つ思いついた。


明日、ちょっと聞いてみよう。


気まずくならなきゃいいけど……


それを胸に秘めるようにつぶやき、布団に潜る。


芝目との進展の喜びと、島村の気持ち……

その二つの思いが心のなかでせめぎ合いながら、そのうち眠気に沈んでいった。

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