春風のかわたれ
島村との会話から、二日ほどが過ぎた。
その間、特に大きな出来事はなかったが、芝目の様子に、ほんのわずかな変化を感じた。
昨日、登校中の廊下で偶然、芝目を見かけた。教室に向かう途中で、声をかけようと思えばかけられる距離だった。
(……慣れるための場…だったね…)
ふと三門の言葉を思い出した。
それが背中を押してくれた。
俺は芝目の背中を追うように歩幅を速めてーー
「芝目さん、おはよう」
「ひっ……!?」
肩をびくりと跳ねさせた彼女の反応に、思わず俺は固まった。
その瞬間、世界から音が消えて凍り付いたような錯覚を覚えた。
だが、色までは消えていなかった…芝目は、ゆっくりと、怯えるように俺の方へ目を向ける。
するとーー
「……お…おはよう……」
小さく、でも確かにそう呟いたあと、芝目はその場に数秒だけ立ち尽くした。
俺が何か言い返す前に、彼女は小走りで教室へと去っていった。
その背中を見送りながら、俺は呆然と立ち尽くした。
ーー今度は…返事があった。
これまでの言葉は、ただの逃げのように感じていた。
けれど、いまの「おはよう」は、確かに俺を見て、気持ちを込めた挨拶だった。
……でも…それがあの日の視線の証明になっていたか、俺にはわからなかった。
***
そして今日に至り、今や茂と対面に座って宿題を教えていた。
芝目のことで頭がいっぱいになりながら思わずため息を漏らして、とうとう茂がぷくっと頬を膨らませた
「ああ、もう!わかったよ!僕バカだから呆れてんでしょ!」
あっ、しまった。完全に自分の思考に没入していた。
怒った茂はそっぽを向き、腕を組んで聞く耳を持たないオーラを放っている。
「いや、ごめんごめん。別のこと考えてたんだ。ほら、元気出せよ」
俺は茂の頬を指でつつく。だがそれが気に障ったようで、茂は指を食いつくような勢いでパクッときた。
一瞬でも遅れたら指を嚙みちぎられたかもしれない…危なねぇ…
「べてべた触るなって言ったのはあっきーのほうからな。べーっ!」
まだ少し不機嫌な様子の茂に苦笑しながら、俺はプリントに目を戻す。
数学の問題、どうやら彼にはピンときていないようだった。
茂が手順の意味が解らないらしく、授業が終わったタイミングに教えてほしいと言ってきた。
20分ぐらい説明と実践を繰り返してきたところ、やはりパッとしていない顔でプリントを睨んでいた。
外の夕暮れをふと見る。さすがにそろそろ遅くなってきた。
「外、暗くなってきてるな。」
「……うん…」
「もっかい説明いる?」
話題を変えるように聞くと、茂はやや不満げに俺を見たが、膨れ顔を緩めて視線をプリントに戻した。
「……んん…わかりそうでわかんないって感じかなぁ」
「どの辺が?」
「ここなんだよなぁ…」
先ほど拗ねたことを忘れたように、茂は俺が教えた手順をなぞりながら問題の箇所を指差した。
だけど答えが合わないと、俺に戻った。
「手順、ここで逆になってるからな」
「え、まじ!?」
茂は数学が苦手だった。頭が悪いわけではなく、理屈で考えるのがあまり得意じゃない。
どちらかというと、体で覚えるタイプだ。
だからこそ、こうやって真面目に学ぼうとするところが、アイツのいいところなんだ。
「わかった?」
「たぶん…やってみるね!」
その時、廊下から近づく足音が聞こえた。廊下窓に目をやると、島村の横顔がちらりとのぞき込んできた。
俺たちに気づいたようで、彼女はふわりと窓から顔をのぞかせてきた。
「あら、居残りとは熱心だね、二人とも」
「あ、やっほー、島村ちゃん!勉強、教えてもらってるんだ!」
茂の明るい声に、島村はくすりと笑った。その柔らかな表情に、なぜか俺は喉の奥が詰まる感覚を覚えた。
(ピンク…いやいや、なに考えてるんだ俺!)
「そうなのね。坂田なら安心だね。」
「え、あ、そうかな?」
ちょっと照れちゃうな。俺はごまかすように頬を搔いた。
その様子が可笑しかったのか、島村はまた小さく笑った。
俺たちの視線が交錯し、一瞬だけそのまま時間が止まったような気がした。
鉛筆のがプリントにこする音だけは妙に耳に響いた。
「あ、解けた!」
茂の一言に俺は現実に引き戻された。気が付いたら、茂はこちらににプリントを見せてきた。
過程が教えた通りで、結果も合っていた。
おー、と思わず口が出た。その横から島村もプリントの内容を見て、一瞬に問題を把握したように同じく感心した声を出した。
「さすがじゃない、相川君」
「当然だよ!僕にかかればへっちゃらだよー」
よく言うよ、この人は……。
そう思って笑いかけた時、茂が島村の抱えているプリントに気づいて声をかけた。
「それ、生徒会の仕事?」
「あー、少しね。この後、資料室に保管するところなの。」
資料室という言葉に、頭の中に芝目の姿が浮かび上がった。
それを察したように、茂がにやりと笑った。
「へぇ、資料室ねぇ~ あっきーも手伝えば?また芝目と二人っきりになれるかもしれないし~?」
うざい、こいつ。
と、思ったのと同時に、心のどこかがに引っかかった。
「そういえば、あれから芝目さんとは仲良くなれた?」
島村の問いかけ。
顔が熱くなっていくのを感じた。からかいの色がない声だったけど、茂との場面ではどうしてもいじりに感じてしまう。
「……い、いや、まぁ…」
(ーー男なら変なプライドを捨ててーー)
三門の言葉が脳裏をよぎる。
恥ずかしいと思ってがごまかそうとした言葉を、すぐに飲み込んだ。
否定の意思を汲み取るように三門の言葉が胸を刺していた。
プライドを捨てて告白…か。
……冷静になれば本当に俺は思春期の中学生っぽく感じてきた。
悔しいが、あいつの言っていることが正しい。あの日も確かにそう思った。
芝目との関係をちゃんと作りたいなら、ここで男を見せるべきだ。
告白まで行かなくてもいい。少なくとも、ちゃんと芝目が俺に慣れる場を、ちゃんと作らないといけない。
そう思って決意した。
「…まだ、芝目さんとは…話しがあれだけど……なんかある?その…二人係でできる仕事、とか…?」
最後の方でちょっと声がかすれて行ってしまった。
それでも、自分の中の決意は揺るがなかった。
島村は口を開けてこちらを見ていた。すぐにその表情は柔らかい笑みに変わった。
「うーん…すぐには思いつかないけど、生徒会いくつか仕事があるから、確認してみるね。」
言いながら、廊下の照明が点いた。島村の顔がほんのり光に包まれて見えた。
「ま、まじ!?」
「約束はしないけどね」
小さく笑った島村。先を照らされたように感じた。
思わず深く頭を下げた。
「ありがとう島村! あとで何でも手伝うから!」
(あれ…俺、今…なんでもって言った?)
口が先に動いていた。けど、それが本心だった気もする。
「……ふーん。じゃあ今度、ほんとに何か頼もうかしら」
「自分の首、絞めたな〜」
茂のちゃかしに俺も笑った。
そのあと、島村がまだやることがあると言い残して資料室の方へ行った。取り残された俺と茂は宿題を終えて、帰り支度を始めた。
カバンを肩にかけて教室を出ようとしたとき、茂は俺を見て今までとは違う笑みを見せた。
「あっきー、やるようになったね。」
「……ま、まぁ……」
このまま、少しずつ。芝目との距離を縮めていく。
その第一歩を踏み出した気がした。
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