第15話 騎士の誓い

時止まりの街セレネを後にしてから、幾度目の夜を越しただろうか。

アウトランドの旅は、カイとノアの間に、静かで、しかし確かな日常を築き上げていた。


「ノア、こっちだ。この岩の陰なら、夜の風を避けられる」

「……リョウカイ。安全な場所の選定。学習します」


カイは、かつてギデオンが自分にしてくれたように、ノアに生き抜くための術を教えていた。赤い太陽の位置から方角を読む方法、食べられる植物と毒草の見分け方、そして、夜を安全に越すための野営地の選び方。ノアは、その全てを驚異的な速度で吸収し、自らのデータベースに記録していく。


「カイ。これが、『マナブ』?」

焚き火の火を、不思議そうに見つめながらノアが尋ねた。

「ああ、そうだ。そして、これが『アタタカイ』だ」

カイはそう言って、焚き火に手をかざしてみせた。ノアも、おそるおそるその仕草を真似る。彼女の深い蒼色の瞳に、オレンジ色の炎がゆらゆらと映り込んでいた。


[アタタカイ:熱エネルギーによる、快適な感覚。]


ノアの肌の下のエーテル回路が、また一つ、微かな光を灯す。カイとの旅は、彼女に知識を与えるだけでなく、失われた感情の断片を、一つ、また一つと拾い集めさせていた。


そんな二人の様子を、カイの左腕に固定された盾の中から、ギデオンの魂が静かに、そして穏やかに見守っていた。セレネでの一件以来、盾から感じられた頑なで冷たい気配は消え、今はまるで陽だまりのような、温かい存在感だけがそこにあった。それは、息子が弟や妹の面倒を見る姿を、誇らしげに見守る、父の眼差しによく似ていた。


旅が二週間を過ぎた頃、彼らはそれを見つけた。

地平線の彼方に、まるで巨大な獣の牙のように突き出す、石の建造物。近づくにつれて、それがかつての砦の遺跡であることが分かった。壁は崩れ、塔は折れていたが、その石組みの一つ一つには、今なお力強い威厳が宿っている。それは、ただの石の骸ではなかった。たとえ滅びようとも、その誇りを失わなかった騎士の魂が、そこに眠っているかのようだった。


砦の崩れた門には、風雨に晒されながらも、かろうじてその形を保った紋章が刻まれていた。

――翼を広げた獅子が、天秤を掲げる意匠。

アストライア王国の、失われた王国の、最後の心臓。


「ギデオン……」

カイは、紋章にそっと手を触れた。その冷たい石の感触が、二百年の時を超えた記憶の扉を開く。


――その瞬間、世界が再び、色彩と音を取り戻した。

音、光、熱。死んだ世界には存在しない、生命の奔流がカイの五感を圧倒する。

目の前には、廃墟ではない、壮麗な城の謁見の間が広がっていた。磨き上げられた大理石の床に、巨大なステンドグラスを通した七色の光が踊っている。両脇には、王国最高の騎士たちがずらりと整列し、その視線は、玉座の前に立つ一人の若者へと注がれていた。

その若者こそ、まだ錆を知らない、白銀の輝きを放つ鎧をまとった、若き日のギデオンだった。彼の顔には、緊張と、それを上回る誇りと喜びが浮かんでいる。


玉座には、金の髪を持つ若き王、エリアンが、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。彼は立ち上がると、ギデオンの前まで歩み寄り、一振りの剣と、そして、今カイが腕にしているものと寸分違わぬ、翼獅子の紋章が刻まれた盾を手渡した。


『ギデオン。本日をもって、汝を我が王国を守護する近衛騎士団の団長に任命する』

王の声は、若々しくも、国を背負う者の威厳に満ちていた。

『その剣で不正を断ち、そして、汝のその盾で、か弱き民を、我らの王国を、未来永劫守り抜け。誓えるか』


若きギデオンは、恭しく剣と盾を受け取ると、その場で膝をつき、高らかに誓いの言葉を述べた。

『はっ。このギデオン、我が魂、この剣と盾に懸けて! 陛下と、アストライアの民をお守りすることを、ここに誓います!』


騎士たちの間に、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。王は満足げに頷き、ギデオンの肩を叩いて立たせた。二人の間に流れるのは、単なる主君と臣下の関係を超えた、固い信頼と友情の絆だった。


光景が変わる。

叙任式を終えた、その日の夕暮れ。城壁の上で、王とギデオンは二人きりで沈みゆく夕日を眺めていた。


『見事な誓いだった、友よ』

王が、親しげな口調で言った。

『だが、ギデオン。剣と盾の力だけでは、真の平和は訪れない。貧困、病、そして人の心に巣食う憎しみ。我らが本当に戦うべきは、そういった混沌だ』

王の瞳は、眼下に広がる王都の灯りではなく、もっと遠い、理想の未来を見つめていた。


『私が目指すのは、ただ豊かなだけの国ではない。法と秩序によって、全ての民が、その出自や富に関係なく、等しく幸福を享受できる世界。争いも、悲しみも存在しない、完璧な調和に満ちた王国だ。それこそが、我らが成し遂げるべき、真の正義だと私は信じている』


ギデオンは、王が語る壮大な理想に、心を奪われていた。それは、一人の騎士として剣を振るうだけでは決して到達できない、あまりにも気高く、美しい世界だった。

彼は、燃えるような夕日に向かって、改めて誓った。

この身が朽ち果てるまで、この偉大な王の理想のために、生涯を捧げよう、と。


その、あまりに眩しい二人の姿を、城壁のさらに上、塔の影から、一人の怪しいローブの人物が、感情のない瞳で見下ろしていた。

だが、その影は一瞬で掻き消え、まるで初めから存在しなかったかのように、美しい夕景だけが残った。


――そこで、カイの意識は、廃墟の砦へと引き戻された。

耳に残るのは、王の理想に満ちた声と、ギデオンの力強い誓い。そして、あの不吉な影の残像。


「カイ? だいじょうぶ?」

いつの間にか隣に来ていたノアが、心配そうにカイの顔を覗き込んでいた。彼女の瞳に、初めて [シンパイ] という感情のデータが記録され、エーテル回路が淡く光る。


「……ああ、大丈夫だ」

カイは、砦の崩れた壁に刻まれた、風化した文字を見つけた。それは、砦の公式な記録日誌の一部だった。


『王国歴342年、太陽の月。エリアン王の理想に共鳴されし、偉大なる『調律者』からの使節、歓迎す。彼らがもたらす知識は、我らの王国を、永遠の調和へと導くだろう』


その一文を読んだ瞬間、カイの背筋を、冷たい何かが駆け上った。

ギデオンとエリアン王が誓い合った、あの輝かしい理想。そのすぐそばに、最初から、あの機械仕掛けの神の影が、忍び寄っていたのだ。

美しかったはずの追憶は、今や、破滅へと続く、不吉な序曲にしか聞こえなくなっていた。

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