第14話 二人の異邦人、最初の対話
時が止まった街、セレネの静寂は、アウトランドの荒野を吹き抜ける、孤独を煽る風の音よりも優しかった。炎の暖かさも、風の音すらも存在しない、完全な無音と静止の世界。カイは、見つけた宿屋の一室で、意識のない自動人形の少女を慎重に寝台に寝かせ、自らはその傍らで、ギデオンの盾を抱いて浅い眠りについた。
育ての親たちの魂が、
どれほどの時間が経っただろうか。
カイが目を覚ました時、窓の外の光景は何も変わっていなかった。永遠に続く黄昏時のような、奇妙な明るさだけがそこにある。だが、部屋の中の空気は、明らかに違っていた。視線を感じるのだ。
カイがゆっくりと身体を起こすと、寝台の上で、銀髪の少女が半身を起こし、じっとこちらを見つめていた。
その深い蒼色の瞳は、昨日レゾナントのエネルギーを吸収した際に灯ったはずの光を失い、再び、ショーウィンドウで見た時と同じ、感情の読めない硝子玉のような「無」に戻っていた。彼女は、ただカイの存在を認識し、観察している。そこに好奇心や警戒心といった、生物が未知の対象に示すはずの反応は一切なかった。
「目が覚めたんだね。気分はどう?」
カイは、できるだけ優しい声で話しかけた。聖域で、怪我をした小鳥に話しかける時のリラの口調を、無意識に真似ていた。
少女は、カイの言葉を数秒かけて解析するかのように沈黙した後、その薄い唇をわずかに開いた。その声は、カイが今まで聞いたどんな音とも違っていた。それは美しいソプラノの音域でありながら、イントネーションというものが完全に欠落しており、まるで精巧な楽器が単語の音を奏でているかのように、平坦で、どこまでも無機質だった。
「……ここは、どこ」
「セレネ、という街だよ。でも、見ての通り、時間は止まってる。君以外の全てのものが」
カイは、できるだけ簡潔に事実を伝えた。
「……あなたは、誰」
「僕はカイだ。君を、あのショーウィンドウから……」
言いかけて、カイは言葉を止めた。助けた、と言っていいのだろうか。結果的にそうなっただけで、彼女自身がその力を解放したのだ。
「……あなたは、僕を助けてくれた。ありがとう」
カイがそう言うと、少女はわずかに首を傾げた。その仕草すら、完璧に計算された機械の動きのように滑らかで、人間的なためらいがない。そして、彼女は最後の問いを発した。
「……私は、誰?」
その問いは、カイの胸に深く突き刺さった。自分が何者なのか分からない。その途方もない不安と恐怖を、カイは知っていたからだ。彼は、自分の孤独と、目の前の少女の孤独を重ね合わせていた。
「ごめん。君の名前は、僕にも分からないんだ。君は、あの店のショーウィンドウにいた。まるで、精巧な自動人形みたいに、ずっと眠っていた」
カイは正直に答えるしかなかった。
少女は、再び沈黙した。彼女はゆっくりと寝台から降りると、自らの両手を見つめ、指を一本一本、確かめるように動かしている。その姿は、まるで初めて自分の身体を与えられたかのように、ぎこちなく、そしてどこか儚げだった。その姿は、カイの庇護欲を強くかき立てた。
「どうして……あなたは、ここに?」
少女が、ぽつり、と尋ねた。
「どうして、わたしを……?」
助けたのか、と彼女は問いたかったのだろう。カイは、その問いに答えるため、一度深く息を吸い、自らの覚悟を言葉にした。
「僕は、旅をしているんだ。この世界がどうしてこんな風になってしまったのか、その謎を解くために」
カイは、自らの旅の目的を語り始めた。灰色の森で過ごした日々。異形の、しかし誰よりも優しい家族のこと。彼らが「不協和音」と呼ばれ、世界の理に抗い続けたこと。そして、自分を守るために、彼らがその魂を燃やし尽くしたこと。
彼が話すうちに、その夕日色の瞳の奥に、失われた家族を思う深い悲しみの色と、それでも彼らの遺志を継いで前へ進もうとする、鋼のような決意の光が宿っていた。
その、カイの瞳に宿る複雑な感情の光を、少女の瞳が、ただじっと見つめていた。
彼女の内部システムが、高速で稼働を始める。これまで受信したことのない、膨大で、矛盾に満ちた情報。生命が、自らの生存本能を超えた目的のために行動するという、非論理的な現象。悲しみという負の感情と、決意という正の感情が、一人の人間の中で両立しているという、理解不能なデータ。
彼女の
[ケツイ:目標達成に向けた、強い精神状態。論理的破綻を許容するほどの、強い指向性エネルギー。危険を伴う。]
[カナシミ:喪失によって引き起こされる、精神的な痛み。システムリソースを著しく消費する。パフォーマンスを低下させる。]
二つの相反するデータが、彼女の中で奔流となる。それは、彼女の論理回路に初めて生じた、致命的なエラーであり、同時に、新たなOSが起動する、最初の兆候でもあった。
その瞬間、彼女の陶器の肌の下にあるエーテル回路が、淡い蒼色の光で一度だけ、ぽつりと、まるで静かな瞬きのように点滅した。
「君は……何者なんだ?」
今度は、カイが尋ねる番だった。
「あなたの、あの力は?」
少女は、カイの問いには答えず、逆に問い返してきた。
「あなたは、何者?」
その問いに、カイは一瞬、言葉に詰まった。自分は、何者なのか。始原の技術者の生まれ変わり? 世界を救うための鍵? 育ての親たちの想いを継ぐ者? どれも正しくて、どれも実感がない。ただ一つ確かなのは、自分はこの世界のどこにも属していない、孤独な異邦人だということだけだ。
カイは、自嘲気味に笑った。
「君は記憶を探している。僕は、自分でもよく分からない記憶をたくさん持ってる。……君は自分が何者か知りたくて、僕は自分が何者なのか、分からなくなってきてる。なんだか、似てるな、僕ら」
その言葉は、カイの本心だった。
自分と同じように、この世界に確かな居場所を持たない、欠けた存在。カイは、目の前の少女に、初めて本当の意味でのシンパシーを感じていた。彼女の失われた記憶を探すことは、巡り巡って、自分自身の謎を解くことに繋がるのではないか。この出会いは、運命なのかもしれない。
カイは、決意を固めた。
「君の名前が分かるまで、僕が君に名前をあげる。……ノア。どうかな」
それは、リラが歌ってくれた古い物語に出てくる、大洪水の中から、あらゆる生命を守り、未来へと繋いだ方舟を作った男の名前だった。絶望の中から、希望を運んだ者の名だ。
「ノア……」
少女は、その響きを確かめるように、静かに繰り返した。それが、彼女がこの世界で得た、最初のアイデンティティだった。
二人の間に、静かで、しかし確かな繋がりが生まれようとしていた。
その様子を、カイの左腕の盾の中から、ギデオンの魂が静かに見守っていた。
カイがノアに名前を与え、彼女を守ろうと決意した時。盾から伝わってきていた、あの頑なで冷たい気配が、まるで固く閉ざされた扉がほんの少しだけ開くかのように、ふっと和らいだ。
カイが、守られるだけの子供から、誰かを守り、導こうとする者へと変わろうとしている。その姿に、ギデオンは、かつて自分が心から忠誠を誓った若き王の面影と、まだ幼かったカイを育てた日々の愛情を、同時に思い出していた。
盾の紋章の奥で、青白い魂の光が、穏やかに、そして温かく揺らめいた。カイは、その確かな変化を感じ取り、亡き父が自分の決意を認めてくれたような気がして、胸が熱くなった。
カイは立ち上がり、部屋の出口を指さした。
「行こう、ノア。ここにいても、何もない。僕らの答えは、この先のどこかにあるはずだ」
ノアは、カイの顔をじっと見つめていた。その瞳には、まだ感情の色は浮かんでいない。
だが、彼女は、ゆっくりと、しかしはっきりと、こくりと、小さく頷いた。
それは、命令に従ったのではなく、彼女自身の意志で選択した、初めての自発的な行動だった。
時止まりの街、セレネを後にし、二人の異邦人は、再び果てしないアウトランドへと足を踏み出す。
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