第2話 境界の歪み
聖域と外の世界を隔てるのは、目に見えない壁だった。
エリアーデが「隔離結界魔術」と呼ぶそれは、物理的な障壁ではない。空間そのものを捻じ曲げ、世界の法則からこの一帯を切り離す、神の御業にも等しい大魔術だ。ギデオンによれば、聖域を一歩出れば、森の様相は一変するという。木々は色を取り戻し、鳥がさえずり、獣が駆ける、生命に満ちた世界が広がっているのだ、と。
カイはその話を、寝物語のように何度も聞かされて育った。だが、十五年間、一度としてその境界を越えたことはなかった。
「なぜ僕らは外に出ちゃいけないの?」
幼い頃、カイがそう尋ねるたびに、育ての親たちは決まって同じ答えを返した。
「外は危険だからだ」とギデオンは低く言い、「君を守るためだ」とエリアーデのページは論理的に述べ、「もう少し、もう少しだけここにいて」とリラは悲しげに歌った。
その「危険」の正体が、今、結界のすぐ外側で蠢いていた。
「また数が増えているな」
ギデオンが、聖域の境界線を見下ろす丘の上で呟いた。彼の隣で、カイも息を殺してその光景を見つめる。
結界の向こう側、本来ならば色鮮やかなはずの森の一部が、不気味に色褪せ、歪んでいた。空間が陽炎のように揺らめき、その中心に、形容しがたい異形の影がいくつも徘徊している。
世界の「歪み」。
ギデオンは、それを「世界の傷跡から生まれる膿のようなものだ」と語ったことがある。彼らがなぜ生まれるのか、その根源的な理由は誰も教えてくれない。
「歪み」たちは、結界に引き寄せられるように集まってきていた。まるで、聖域の内部にある何かを求めているかのように。結界に触れた「歪み」は、音もなく霧散する。だが、そのたびに結界全体がビリビリと震え、カイの肌をかすかに粟立たせた。
「奴ら、聖域の中にある『何か』に反応している……違うか、エリアーデ?」
ギデオンの問いに、彼の背後にいつの間にか現れていたエリアーデの幻影が静かに答えた。
『仮説には、観測と実証が必要だ』
カイは、その答えがはぐらかしであることに気づいていた。彼らが隠している真実。その一端が、あの「歪み」の存在と深く関わっている。直感がそう告げていた。
「僕も戦える。ギデオンに教わったんだ。僕も、みんなを守りたい」
カイの言葉に、ギデオンの兜の奥の光が揺らめいた。
「まだ早い」
「でも!」
「まだ、早い」
有無を言わせぬ響きだった。ギデオンがひとたびそう決めれば、覆すことはできない。カイは唇を噛み、蠢く「歪み」の群れを睨みつけた。
守られているだけでは、何も分からない。真実を知るには、自ら境界を越え、危険に身を投じるしかないのではないか。そんな焦りが、カイの心にじりじりと広がっていく。
数日後、その焦りが衝動へと変わる出来事が起きた。
その日、カイはリラと共に聖域内の泉で水汲みをしていた。リラのハミングは、水面に広がる波紋のように、穏やかに空気を震わせる。
「リラは、外の世界が恋しくないの?」
ふとした疑問だった。リラは歌を止め、遠くを見るような目で空を見上げた。
「……恋しいですよ。太陽の匂いも、海の風も、賑やかな市場のざわめきも。すべてが、この胸に焼き付いています」
彼女の言葉は、まるで一編の詩のようだった。だが、そこにはカイの知らない世界の色彩と熱があった。
「なら、どうして……」
どうして、こんな灰色の森にいるの?
そう問いかけようとした瞬間だった。
リラの表情が凍りついた。彼女が見つめる先、泉の水面に、ありえないものが映り込んでいた。
一輪の、深紅の薔薇。
灰色だけのこの聖域には、決して存在しないはずの「色」。それは泉の底から湧き出たかのように、ゆっくりと水面に浮かび上がってきた。
「カイ、下がって!」
リラの悲鳴のような声と同時に、薔薇は黒い靄を放ちながら変質を始めた。花びらは鋭い牙となり、茎は無数の棘を持つ触手へと変わる。それは、紛れもない「歪み」だった。結界の内側に、直接出現したのだ。
「なぜ、ここに……!?」
リラの動揺が、彼女の周囲のエーテルを乱す。聖域内の空気がざわめき、木々が不気味に揺れ始めた。
「歪み」は、より近くにいるリラの魂の響きに引かれたのか、触手をしならせ、彼女に襲いかかった。
カイは、考えるより先に動いていた。
水汲み用の桶を「歪み」に投げつけ、一瞬の隙を作る。その間にリラの腕を引き、背後へと庇った。
「リラは下がってて!」
腰に差していた木剣を抜き放つ。ギデオンとの訓練の日々が、恐怖に固まる身体を強制的に動かしていた。
だが、相手はカイがこれまで対峙したどんな訓練相手とも違う。法則から外れた、予測不能の怪物。
触手の一撃が、カイの肩を掠める。服が裂け、灼けるような痛みが走った。これが、本物の戦い。これが、ギデオンの言っていた「危険」。
「カイ……!」
リラの悲痛な叫びが響き、それまで彼女の周りを漂っていた穏やかなハミングがぴたりと止んだ。彼女は、自分の動揺がカイの集中を乱すことを悟り、はっと息を呑んで自らの唇を両手で覆った。
(ダメ……私が声を上げれば、カイが気を取られてしまう……!)
彼女は血が滲むほどの力で唇を噛み、溢れ出しそうになる悲鳴を必死に喉の奥へと押し込める。その半透明の身体が、まるで内側から発光するかのように、かすかに明滅を始めた。瞳は恐怖に見開かれ、ただカイの背中を見つめることしかできない。彼女は、カイを信じて沈黙を守ること、それこそが自分にできる唯一の援護だと悟っていた。
早く、終わらせないと。
カイは、背後から突き刺さるようなリラの緊迫した気配を感じていた。彼女が自分のために、恐怖と戦いながら沈黙を守ってくれている。その想いが、カイの背中を押した。焦りが思考を曇らせる。触手の猛攻を防ぐので手一杯で、反撃の糸口が見えない。
(どうすれば……どうすればいい!? 焦るな。ギデオンならどうする? エリアーデならどう考える?)
その時、頭の中に、二つの異なる理が稲妻のように結びついた。
――エリアーデの魔法は、エーテルを操り「現象」を起こす力。
――僕の知っている物理法則は、起きた「現象」が次に何を引き起こすかの道筋。
(そうだ、組み合わせるんだ! この世界の誰もやらない方法で!)
カイは、迫りくる触手の一撃を、あえて木剣で浅く受け止めた。その瞬間、彼は最小限のエーテルで一つの魔法を起動する。
――《斥力》!
木剣と触手が接触した一点に、ごく微小な反発力を発生させるだけの、初歩的な魔法。だが、触手の持つ強大な運動エネルギーと合わさった瞬間、その斥力は物理法則に従って爆発的に増幅された。
カイの身体は、まるで台風の目の中にいるかのように、触手の力を完全に受け流し、逆にその力を利用してコマのように高速で回転を始める。
触手はカイの身体を捉えきれず、空を切った。体勢を崩した「歪み」の本体、牙を剥く薔薇の中心部が、一瞬だけ無防備に晒される。
カイは見逃さなかった。
魔法によって生み出された物理的な回転力――その遠心力を全て乗せた木剣を、渾身の力でその中心へと叩き込む。それが、破壊という「結果」を生む。
ぐしゃり、という鈍い音と共に、「歪み」は断末魔の叫びすら上げず、黒い塵となって掻き消えた。
「はぁ……はぁ……っ」
荒い息をつきながら、カイはその場に膝をついた。肩の痛みが、今更のように現実感を伴って襲ってくる。
「カイ、大丈夫ですか!?」
リラが駆け寄り、その透けた手が恐るおそるカイの傷に触れる。そして、彼女は小さな声で、まるで子守唄のような穏やかな旋律を口ずさみ始めた。
不思議なことに、その歌声が耳に届くと、肩の灼けるような痛みが和らいでいくのが分かった。しかし、裂けた服の下の傷口そのものが塞がるわけではない。出血は止まらず、傷は生々しく残ったままだ。リラの歌は、万能の治癒魔法とは明らかに違う、もっと内面的で、心の痛みを鎮めるような、不思議な力を持っていた。
「……ありがとう、リラ。もう、大丈夫」
カイが無理に微笑んでみせると、リラは安堵の息を漏らし、歌うのをやめた。
その時だった。
「――見事なものだな」
静かで、冷たい声が響いた。
いつの間にか、エリアーデの幻影がそこに立っていた。彼女の視線は、カイの傷ではなく、先ほどまで「歪み」があった場所へと向けられている。
「結界内部に直接『歪み』を発生させるとは……。想定外のパラメーターだ。だが、それ以上に想定外なのは君の戦術だ、カイ」
エリアーデの幻影の声には、純粋な驚愕と、わずかな恐怖すら混じっていた。
「君は……魔法を、その『結果』のためではなく、次の物理現象を引き起こすための『原因』として使った。斥力の魔法は、本来、物を押し返すためのもの。それを、自身の回転力を生むための起爆剤にするなど……。それは、この世界の誰も思いつきもしない、魔法の法則と物理の法則の異種交配。神々が定めた
エリアーデの言葉に、カイは何も答えられなかった。リラもまた、心配そうにカイとエリアーデを交互に見ている。
エリアーデの幻影が、ふっとカイに近づいた。その瞬間、カイの頭の中に、彼女のものではない声が直接響いた。
《――カイ。その力は、君を破滅に導く不協和音だ。決して、誰にも悟られてはならない》
それは、声というより純粋な思考の奔流だった。冷たく、それでいてどこか切迫した響きを伴って、カイの脳裏に直接刻みつけられる。カイが驚いてエリアーデを見つめると、彼女の幻影は表情一つ変えず、静かに佇んでいるだけだった。
《今日の出来事は、例外的なエラーとして記録する。君も、忘れなさい》
思考の波が引いていく。エリアーデはカイからすっと視線を外し、リラに向き直った。
「リラ、彼の傷の手当てを。私は結界の修復と原因の調査を行う」
彼女はそれだけ言うと、すぅっと姿を消した。
後に残されたのは、脳裏に響いた警告に戸惑うカイと、彼の肩口の傷を心配そうに見つめるリラだけだった。
今日の出来事は、カイに二つの確信を与えた。
一つは、自分の中にある知識が、この世界の常識から逸脱した、特別な力であるということ。
そしてもう一つは、育ての親たちが守ろうとしている秘密の核心に、自分自身の存在が深く関わっているということだ。
境界の向こう側だけが、危険なのではない。
この聖域もまた、巨大な謎と危険の上に成り立つ、脆い楽園なのだ。
その夜、カイは生まれて初めて、眠れずに夜を明かした。
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