灰の森のソナタ

シマシマ

第1章:灰色の聖域

第1話 灰と鉄と歌

カイの朝は、いつも同じ音で始まった。


聖域の中心に立つ古い鐘楼から響く、重く、澄んだ鐘の音。それは一日の始まりを告げる合図であり、この時が止まったかのような森に、唯一、確かな時間の流れを刻む音だった。鐘の音がひとつ、またひとつと灰色の空気に溶けていくのを、カイは寝台の上で数える。七つ目の鐘が鳴り終わる頃、決まって扉の外から声がする。


「カイ、起きなさい。朝餉の準備ができています」


布越しに響くように柔らかく、それでいてどこか儚い、鈴を転がすような声。リラだ。カイは寝台から身を起こし、簡素な木製の窓を開け放った。ひやりとした、湿り気と乾いた土の匂いが混じった空気が流れ込んでくる。


窓の外に広がるのは、どこまでも続く「灰色の森」。陽光は常に分厚い雲に遮られ、すべての色彩が洗い流されたかのように、世界はモノクロームの濃淡だけで描かれている。聳え立つ木々は灰の幹を持ち、その枝葉は墨で描いた影のようだ。風が吹いても、葉擦れの音はカサカサと乾いていて、生命の瑞々しいざわめきを感じさせない。


ここは、世界の理から切り離された聖域。そして、カイが物心ついた時から過ごしてきた、世界のすべてだった。


「おはよう、リラ」


部屋を出ると、リラが静かに微笑んでいた。彼女の身体は半ば透けており、その姿は陽炎のように揺らめいている。長く編まれた銀糸のような髪が、彼女の動きに合わせて微かな光の軌跡を描いた。彼女の存在そのものが、この色褪せた世界における、はかなくも美しい一編の詩のようだった。


「おはよう、カイ。よく眠れたかしら」


「うん。……また、夢を見たんだ」


カイの言葉に、リラの微笑みが一瞬、悲しげに陰ったのをカイは見逃さなかった。彼女は何も言わず、カイの頭を優しく撫でた。その手は実体を持たず、ただ温かい気配だけがカイの髪を通り過ぎていく。その感触はいつも、カイに安らぎと同時に、埋めようのない寂しさを感じさせた。


カイは時折、奇妙な夢を見る。見たこともない光景、聞いたこともない言語、そして自分が自分ではないような感覚。ガラスと金属でできた箱が高速で行き交う道、空を切り裂く鉄の鳥、掌の中にある光る板から流れる無数の情報。断片的で、脈絡のない記憶の洪水は、目覚めるたびに強烈な違和感を残していく。それはカイに、自分だけがこの世界の「異物」であるという、根源的な孤独感を植え付けていた。


食堂に向かうと、そこには既に二人の育ての親が待っていた。


一人は、部屋の隅で壁に寄りかかるように佇む、黒錆に覆われた巨大な鎧。《鉄錆の騎士》ギデオン。2メートルを超えるその巨躯は、ただそこに在るだけで圧倒的な存在感を放っていた。全身を覆うプレートアーマーは無数の剣傷や打痕で覆われ、胸当てにかつて刻まれていたであろう紋章は意図的に削り取られている。兜の隙間からは、後悔を象徴するような冷たい青白い光だけが漏れていた。


「……おはよう、カイ。遅い」


鎧の奥から響く声は、石と石が擦れ合うように低く、感情が削ぎ落とされている。それが彼の常だったが、カイはその一言に、心配の色が混じっていることを知っていた。


もう一人は、テーブルの上に鎮座する、分厚く巨大な魔導書。《書庫の魔女》エリアーデだ。人皮を思わせる不気味な装丁の表紙には、複雑な銀の文様と共に一つの鍵穴が描かれている。彼女は言葉を発さず、代わりにページがひとりでにめくれ、そこに流麗な文字がインクのように染み出し、浮かび上がることで意思を伝えた。


『夜更かしは非論理的です。最適な心身の状態を維持するためには、七時間の質の高い睡眠が不可欠。昨夜の君の就寝時刻から逆算すると、約三十二分の睡眠負債が発生しています』


「ごめんなさい、エリアーデ。昨日の魔法の復習をしてたら、つい」


カイが謝ると、エリアーデのページに『言い訳は不要。それより、今日の課題はエーテルの循環効率に関する計算です。誤差は0.01%未満に抑えること。睡眠負債が思考能力に及ぼす影響を考慮し、制限時間は通常より5%延長します』と、更なる文字が浮かんだ。彼女は常に論理的で、そしてどこまでも手厳しい。


朝餉は、森で採れた木の実を挽いて焼いた固いパンと、干し肉と根菜のスープ。カイだけが、その食事を必要とした。ギデオンは何も口にせず、リラはただスープの湯気を吸い込むようにしていた。エリアーデに至っては、口にする器官すらない。この食卓の光景こそが、カイと彼らの間にある決定的な断絶を、静かに、しかし明確に示していた。


彼らは、人間ではなかった。


リビングアーマー、セイレーンのような歌人、そして魂を宿した魔導書。それでも、彼らはカイにとって唯一の家族だった。寡黙な騎士は父のように、博識な魔女は師のように、そして儚い歌人は母のように、カイに愛情を注いでくれた。


食事を終えると、一日は訓練と学習で満たされる。


午前中はギデオンとの剣の稽古だ。聖域の中にある、苔むした古い修練場。ギデオンはカイに木剣を投げ渡し、自らは錆びた大剣をゆっくりと構えた。それは剣というより、もはや鉄塊と呼ぶ方がふさわしい代物だった。


「構えろ」


その一言を合図に、訓練が始まる。ギデオンの剣は重く、速い。カイは必死にそれを受け流し、隙を窺う。剣と剣が打ち合う乾いた音だけが、静かな森に響き渡る。


「動きが直線的だ。敵に思考を読ませるな」

「踏み込みが甘い。腰で振れ、腕で振るな。力の流れを意識しろ」


ギデオンの指摘は常に的確で、一切の無駄がない。彼は決して手加減をしなかった。カイが打ち据えられ、泥にまみれても、彼はただ「立て」と命じるだけ。それは、カイに生き抜くための力を授けようとする、彼なりの不器用な愛情表現だった。


数えきれないほど打ち込まれ、ようやく訓練が終わる頃には、カイは全身汗だくで、息も絶え絶えになっていた。そんなカイに、ギデオンはいつもと同じように背を向ける。


「……今日の動きは、昨日よりは良かった」


その一言が、カイにとっては何よりの褒め言葉だった。


午後は、エリアーデの書庫で魔法の講義が待っている。書庫は聖域で最も大きな建物で、天井まで届く本棚に無数の書物が収められていた。その全てが、エリアーデの「身体」の一部なのだという。古い羊皮紙とインクの匂いが、カイの思考を澄ませてくれる。


「今日の課題です。この古代竜の鱗が持つエーテル抵抗の構造を解析し、それを応用した防御術式の理論を構築しなさい。制限時間は、そこの水時計が落ちるまで」


エリアーデがページに文字を浮かべ、一枚の黒光りする鱗をカイの前に転がす。彼女の教える魔法は、世界の法則を記述する言語「ロゴス」を用いた、極めて論理的な学問だった。火を熾し、水を操る。それは全て、エーテルという根源エネルギーを、定められた法則に従って編纂する行為に他ならない。


カイは集中し、鱗に触れ、その内部を流れる微細なエーテルの流れを読み解こうと試みる。頭の中で、無数の数式と理論が組み上がっては崩れていく。時折、前世の記憶の断片――分子構造のモデルや、電磁気のフローチャートが閃光のように過り、カイ自身も理解できないままに、解答への道を照らすことがあった。


「……できた」


水時計の砂が残りわずかになった頃、カイは羊皮紙にびっしりと術式を書き上げて提出した。エリアーデのページが素早くめくられ、術式を検分していく。


『……合格です。ですが、思考の過程にいくつかの飛躍が見られます。論理的整合性を欠く発見は、再現性のない偶然に過ぎません。偶然に頼る者は、いずれ破滅します』


手厳しい評価。だが、その文字の揺らぎの奥に、微かな安堵と誇らしさのようなものが滲んでいるのを、カイは感じ取っていた。


夜、一日の終わりはリラとの時間だ。彼女はカイを鐘楼の最上階へといざなう。そこからは、灰色の森を一望できた。


「カイ、今日の歌を聴かせて」


リラの促しを受け、カイは静かに息を吸い、習ったばかりの古いバラッドを歌い始める。それは、遠い昔に失われた王国の、悲しい恋の歌だった。カイの歌声はまだ若く、未熟だ。だが、リラはいつも目を細め、慈しむようにその歌に耳を傾ける。


歌い終えると、今度はリラが歌う番だった。彼女の歌声は、この色褪せた世界で唯一、鮮やかな色彩を持つかのように響き渡る。それは傷を癒し、心を慰め、魂を震わせる力を持っていた。ギデオンの鎧の隙間から漏れる光が和らぎ、エリアーデのページが穏やかに波打つのは、いつもリラの歌が響く時だけだった。


「リラは、どうしてそんなに悲しい歌ばかり歌うの?」


カイが尋ねると、リラはいつものように、答えずに微笑むだけだった。そして、カイの胸にそっと、実体を持たない手を当てる。


「いつか、カイが私に、喜びの歌を教えてくれる。……そんな気がするの」


その言葉の意味を、カイはまだ理解できなかった。


こうして、灰色の聖域での一日は終わる。剣の厳しさ、魔法の深遠さ、そして歌の温かさ。三人の異形の家族が与えてくれる全てが、カイという存在を形作っていた。


しかし、カイの心の奥底では、常に一つの疑問が渦巻いていた。


なぜ、僕らはここにいるのか。なぜ、この森は灰色なのか。そして、時折見るあの鮮やかな世界の夢は、一体何なのか。


育ての親たちは、決してその答えを語ろうとはしない。彼らの優しさの裏に隠された、深い悲しみと後悔の気配だけを感じながら、カイは眠りにつく。


彼の知らないところで、世界の歯車が大きく軋み始めていることも知らずに。カイ自身の存在が、この静寂に満ちた世界に、終わりの始まりを告げる最初の不協和音を奏でていることにも、まだ気づいてはいなかった。

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