第2話 幼馴染
朝の光が、薄く教室のガラス窓を透かして差し込んでいた。
風に揺れるカーテンの向こう側では、蝉が相変わらず熱のこもった鳴き声を張り上げている。
「ねえ、澪翔。最近、ちょっと静かじゃない?」
宇佐見柚葉は、そう言って隣の席から澪翔に声をかけた。
彼女の声は明るいけれど、ほんの少しだけ硬さがあった。まるで、何かに踏み込むことをためらうような。
「……静かって?」
「ううん、なんでもない。冗談」
そう言って、柚葉は笑って肩をすくめた。
澪翔はノートに目を落としたまま、少し間をおいて言った。
「転校生の子と昨日いろいろ話しただけだよ。たまたま帰る方向が一緒で」
柚葉の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「ふうん。羽白さんって、ちょっと変わった雰囲気だよね。静かだけど、なんか目の奥に何かあるっていうか……」
澪翔は少しだけ首を傾げた。
「……そうかもな。でも、悪いやつじゃなさそうだった」
柚葉はしばらく黙っていた。そして、まるで話題を切り替えるように明るく言った。
「ねえ、今度の土曜、灯籠流しの祭りあるじゃん? 一緒に行かない?」
突然の誘いに、澪翔は少し驚いたように彼女の顔を見た。
「……俺、祭りとかあまり行かないし、そういうのって……」
「そういうのって?」
「……デートみたいだろ?」
柚葉は一瞬だけ表情を止めたが、すぐに笑顔を作って言った。
「だから誘ってるんじゃん、幼馴染として!」
そう言って、柚葉はあっけらかんと笑って見せた。その笑顔は、いつもと同じ明るさだった。
でも澪翔には、どこか無理をしているように感じられた。
彼女は席を立ち、振り返りざまに少しだけ声を低くして言った。
「私さ、澪翔の隣に、ずっと座ってたのに……全然気づかないんだね、そういうのって」
そう呟くように言ったその言葉は、教室のざわめきにかき消されることはなく、まっすぐに澪翔の胸に届いた。
放課後の教室。生徒たちの声が徐々に遠ざかり、空気が静かに落ち着いていく。
羽白鈴は、ゆっくりと机の中から筆箱をしまい、立ち上がろうとしていた。
そのとき、教室の後ろ側から、スニーカーの軽い足音が近づいてくる。
「羽白さん、ちょっといい?」
声をかけたのは、宇佐見柚葉だった。
鈴は少し驚いたように振り向き、すぐに柔らかく笑みを浮かべて頭を下げた。
「……宇佐見さん、ですよね」
「うん、柚葉でいいよ。羽白さんも、鈴ちゃんって呼んでいい?」
「……じゃあ、柚葉さんで」
少し距離のある返答だったが、柚葉は気にした風もなく、彼女の隣に立って窓の外を見た。
「この町、どう? 慣れた?」
鈴は小さくうなずいた。
「まだ……半分くらい。でも、昨日、篠原くんがいろいろ教えてくれて」
柚葉の目が、一瞬だけ細くなった。
けれど彼女は笑って、そっと教室の机の端に腰かけた。
「澪翔ってさ、不器用で、だけど優しくて、ちょっと考えすぎるタイプなの。昔から、そうだった」
「……そうなんですか」
「でもね、ああ見えて、人のことを放っておけないんだ。困ってる人がいたら、絶対に助ける。そういうところ、昔から変わらない」
柚葉の声は、まるで誰かに言い聞かせるようだった。
鈴は一瞬だけ目を伏せて、小さな声で呟いた。
「……だから、私のことも?」
柚葉はその言葉にわずかに反応した。
けれど、表情を変えずに答えた。
「うん。きっと、鈴ちゃんが誰であっても、あの子は手を差し伸べると思う。そこに特別な意味があるかは、まだわからないけど」
その言葉に、鈴はふと顔を上げた。目の奥に、微かな陰りが差していた。
「……私は、別に助けてもらいたかったわけじゃない。ただ、そこにいただけで……」
柚葉は立ち上がり、制服のスカートの裾を軽く払った。
「わかってる。でも、澪翔ってそういう人なの。自分で気づいてないだけで、誰かに優しくしてるうちに、相手が――期待しちゃうこともある」
そう言って、柚葉は歩き出そうとしたが、少しだけ立ち止まって振り返った。
「私、澪翔の幼馴染だから、ちょっとだけ意地悪になっちゃうかも。ごめんね」
「……気にしません。柚葉さんが言うなら、きっとその通りなんでしょう」
ふたりの視線が重なった。そこには、まだ交わらぬ想いと、言葉にならない警戒心があった。
蝉の声が、静まりかけた教室に遠く響く。
誰もいなくなった黒板の前に、薄明かりが静かに落ちていた。
夕暮れの空は、まるで誰かの感情をそのまま写し取ったかのように、滲んだ朱色に染まっていた。
駅の改札を抜けて商店街へ向かう通学路。
羽白鈴は、一歩一歩を確かめるように歩いていた。
足元に伸びる自分の影が、ゆっくりと揺れる。
通りの先、電柱に貼られたポスターが目に入った。
「――灯籠流し、来週か」
小さく呟いたその声は、誰にも聞こえなかった。
花火大会と同時開催と書かれている。夜の川面を流れる無数の灯り。きっと幻想的で、綺麗なんだろう。
けれど、彼女の目はどこか遠くを見ていた。
――見に行く? 誰かと? それとも一人で?
「……でも、行くべきなのかな」
その問いに、返事をする人はいなかった。
彼女の胸の奥には、小さな違和感がずっと居座っていた。
転校してきたばかりのこの町。まだ誰にも話していないことが、ひとつだけある。
この町には、昔、一度だけ来たことがある。
それは、幼い頃の夏休み。祖母の家に預けられた数日間だけ。
記憶は曖昧で、輪郭もぼんやりとしている。けれど、祭りの喧騒と、川辺に並ぶ灯籠の光だけは、なぜか鮮やかに焼き付いていた。
そのとき――あの時、誰かと、約束をしたような気がする。
でも、それが誰だったのか。何を約束したのか。
思い出そうとすると、頭の奥が痛んで、何も掴めない。
ふと、背後から足音が近づいてきた。
「羽白さん、帰り?」
振り向くと、そこには篠原澪翔の姿があった。
「……うん。駅まで歩こうと思って」
「ちょうどよかった。俺もそっちだから、一緒に行こ」
澪翔はそう言って、自然な距離で鈴の横に並んだ。
ふたりの歩幅は、はじめは少しずれていたが、やがてぴたりと揃い始める。
通り過ぎるコンビニからは、冷房の風とフライドチキンの匂いが漂ってきた。
「……今日、柚葉と話してた?」
澪翔の問いに、鈴はすぐには答えなかった。
「少しだけ。……あの人、あなたのこと、よく知ってるんだね」
「まあ、幼馴染だから。小学校のころからずっと一緒で……」
「――好きだったの?」
その問いは、意図的なものでも挑発でもなかった。
ただ、確かめたいという純粋な思いが込められていた。
澪翔は、歩みを止めなかったが、その歩幅がわずかに緩んだ。
「うん……。たぶん、昔は、そうだったと思う。でも、今は……わからない」
「柚葉さんは、あなたのこと、まだ好きだと思う」
「……そうかもね。でも、あいつは言わないよ。俺に気を使ってる。ずっとそういうやつだから」
その言葉に、鈴はなにも返さなかった。
ただ、心の中で思う。
――私はどうだろう。私は、澪翔にとって、何になれるんだろう。
「ねえ、篠原くん」
「ん?」
「灯籠流し……行ったことある?」
「うん。毎年行ってるよ。俺、小さいころに母さん亡くしててさ。そのときから、なんとなく行ってる」
鈴は、その言葉にふっと目を細めた。
「……じゃあ、来週も、行く?」
「たぶん。花火もあるし」
「……連れてって」
鈴は立ち止まり、正面から澪翔を見た。
「もし迷惑じゃなかったら、一緒に行ってみたい。まだ、この町のこと、ちゃんと知らないから」
澪翔は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく笑った。
「迷惑なわけないよ。じゃあ、約束な」
彼は右手を差し出した。
鈴はためらったあと、小さくその手を握り返した。
そのとき、背後の角を曲がったところに、宇佐見柚葉が立っていた。
声をかけるつもりだったのか、それとも偶然だったのか。
けれど、その場に立ち尽くし、柚葉は遠くからふたりを見つめていた。
視線が交わることはなかった。
ただ、彼女の唇が、言葉にならないなにかを結んだまま、静かにほどけた。
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