結婚を目前に再会したのは、かつて俺を奪い合った二人の彼女だった
miーma
第1話 転校生
夏の夕暮れ、駅前のロータリーに立つ篠原澪翔。
彼は結婚式を二ヶ月後に控えていた。スーツのポケットに手を突っ込み、冷えた缶コーヒーを握りしめる。
蝉の鳴き声がまだ暑苦しく響く街並みの中、ふと足が止まる。
「灯篭流しと花火大会」――祭りのポスターが商店街の壁に貼られている。
澪翔の胸に、あの日の記憶が鮮やかに甦った。
窓の外には、湿気を含んだ夏の空気がゆらりと揺れていた。教室の中は、クーラーの風がやわらかく拡散され、外の熱気と比べて時間が少しだけゆっくり流れているように感じられた。
篠原澪翔は、いつものように端の席に腰を落ち着けて、ノートの余白にぼんやりと線を引いていた。授業はまだ始まっていない。換気のために窓が少し開いていて、遠くから蝉の声が断続的に届く。
澪翔の目は机の上ではなく、教室の入口に向いていた。そこに、誰かが立っていた。
彼女は、転校生らしい、少しぎこちない足取りで教室に入ってきた。制服はまだどこか馴染んでいないように見えた。白いブラウスの襟元には軽くしわがあり、リボンの結び目も、誰かに教えてもらったばかりのようにぎこちない。彼女の背後には、担任らしき教師と、クラスの数人がちらりと視線を向けていた。
彼女は一度教室を見渡し、それから視線を澪翔の方へ向けた。瞳に余計な色を乗せず、すっとこちらを見たその瞬間、澪翔の胸の奥になにかがじんわりと波打った。
「――新しい転校生か」
誰より早く気づいていたのは、澪翔だった。そう思った瞬間、少女の視線が一瞬わずかに揺れた。気のせいかと思ったが、彼女はそのまま澪翔の前を通り過ぎて、自分の名前を呼ばれた席に向かって歩き出す。背中はふわりとした雰囲気をまとっていたが、歩幅には慎重さがあった。
担任が黒板の前に立って言った。
「じゃあ、羽白さんは……篠原の隣の席ね」
澪翔は少し驚いたように顔を上げる。
転校生の女の子――羽白鈴が、教室の前から澪翔のほうへ向かって歩いてきた。
一瞬、視線が重なる。
「よろしくお願いします」
鈴は軽く頭を下げて、澪翔の隣に腰を下ろした。
澪翔はわずかにうなずきながら、どこか懐かしいような気配を彼女の中に感じていた
澪翔が数歩、彼女の方へ動いたのは、たぶん無意識だった。
「あの……こっち、空いてるよ」
声をかけたのは、自然とだった。彼女は振り返る。視線がまた澪翔と重なった。
「ありがとう」
その声は、思ったよりも低くて柔らかく、でもどこか距離を測るような響きがあった。澪翔が出した席の隣に、彼女はゆっくりと座った。彼女の隣に座るという行為が、澪翔にとってただの「隣の席」以上の意味を帯びる気がしたのは、そう長くは考えなかったからだ。
クラスのざわめきが徐々に静まって、担任が前に立つ。軽く自己紹介をして、転校生の名前が告げられた。
「羽白 鈴(はしろ りん)さんです。よろしくお願いします」
その名が教室に流れたとき、鈴は自分の机の上にあるノートの角を軽くつまんでしわを伸ばすようにした。澪翔の視線がその仕草を追う。彼女の指先に旧い癖が透けて見えたような――それは、なにかを抑えるための静かな動作だった。
授業が始まり、数学の公式が黒板に整理されていく。澪翔はノートを取るふりをしながらも、ちらりと鈴を見た。彼女は気にする風でもなく、ただ教科書を開き、ペンを置いて静かに先生の話を聴いていた。彼女の髪の先が、時折、風に揺れて肩に柔らかくかかる。少しだけ見える横顔には、なにかしらの距離感と、抜け落ちた何かを探しているような、そんな表情が混じっていた。授業が終わった。
──そのとき、教室の後ろから声がした。
「澪翔、また窓側にいるの?」
その声が、澪翔の背後から響いた。振り向くと、宇佐見柚葉(うさみ ゆずは)が身を乗り出して隣の列から顔を覗かせていた。長い黒髪をゆるく結び、いつものように明るく無造作に笑っているが、目にはどこか引っかかりがある。澪翔と奈々実の間には、夏前から微妙な距離が生まれていた。彼女は言葉にしないが、澪翔の心の中で何かを探るような、そんな視線を送ってくる。
「うん、ちょっと」
澪翔は、ほんの少しだけ頷いた。
柚葉はそのまま、ちらりと鈴を見た。鈴の背中が一瞬だけ緊張したように見えたのは、澪翔の気のせいではなかった。彼女が背を向けたまま少し視線をずらし、すぐにいつもの柔らかさを取り戻す。柚葉は軽く肩をすくめると、どこか不器用に笑って、視線を引っ込めた。
その昼休み、澪翔は図書室へ向かった。
いつもの逃げ場だった。本の匂い、静寂のなかに混じるページをめくる音。今日は、いつもより人が少なかった。机の上には、夏休みの課題の本が重なっていた。澪翔が席についてページを開くと、扉の向こうで誰かが小さな音を立てて本を閉じた。
「――澪翔?」
そう呼ぶ声に、澪翔は一瞬、反射的に背筋を伸ばす。声の主は、柚葉だった。彼女はぴったりと席の隣に座った。
「昨日、教室で見かけたんだけど……転校生の子、気になる?」
澪翔は素直に首を振る。
「いや、ただ、顔を見たくらいだよ」
その言葉に、柚葉はちらりと視線を逸らした。
「……そう」
その「そう」には、言葉にしきれない感情が含まれていた。澪翔は、彼女が何かを言いかけて、飲み込んだのを感じた。でも、探るようにはしなかった。柚葉は本を閉じて、少しだけ澪翔の手元を見た。誰も見ていないはずのその瞬間に、澪翔は幼馴染だった頃の彼女と、今の微妙な隔たりの間を思い出す。
「……もう、ああいうの、面倒くさいよね」
柚葉が小さく笑って口をつぐむ。
「面倒って」
「好きとか、気になるとか、そういうのをいちいち言わないとわからないやつ、いるじゃん」
澪翔は、言葉を選ぶように息を吐く。
「……俺は、そういうの、悪いと思ってる。誰かに押し付けるようなことはしたくないって、昔から」
柚葉は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それが、あんたの良さでもあり、厄介なところでもあるんだよね」
それから、沈黙がふたりを包んだ。ページをめくる音だけが、時間を測る刻みだった。
「……あのさ」
柚葉は、やや小さな声でつぶやいた。
「昔みたいに、素直でいてくれたら、もっと楽かもしれないよ」
澪翔はそれに笑いを返さず、静かにうなずいた。
「……わかってる。でも、どうしても、俺は言葉を簡単に出せないときがあるんだ。ごめん」
「……別に謝らなくていい」
そう言って、柚葉は立ち上がると、ふたりの間の空気を軽く揺らすように背を向けた。
「また放課後ね」
澪翔が図書室の窓の外を見ると、空は薄く刻まれた雲が流れていた。夏の光が、ゆっくりと校舎の壁を金色に染めている。
放課後。澪翔は帰り道の途中、校舎の裏手にある小さな階段で、羽白鈴とすれ違った。彼女は教室とは違って制服のリボンを少し緩め、バッグの紐を指先で軽くいじりながら歩いていた。澪翔は自然な流れで側に寄ってしまう。
「……あの、帰り道、同じ方向だよね?」
鈴は少しだけ驚いたように目を細めたが、すぐに微かな笑みを作った。
「うん。よかったら、一緒に……教えてくれる?」
「教えるって?」
「この町のこと。こっちに来たばかりで、まだよくわからなくて」
澪翔は軽く笑った。
「じゃあ、まずは駅の出口と、図書館の行き方を教えるよ。ついでに、君の好きな場所も聞かせて」
鈴は少しだけ顔を傾げて、遠くを見たような視線を投げた。
「好きな場所……わからないかも。まだ、探してるところ」
その言葉のあと、澪翔は彼女の瞳を見た。透き通ってはいるが、どこか底に蓋をされているような、光を完全には通さない曇りがあった。
「……たぶん、見つかるよ」
鈴はその言葉に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう、篠原さん」
彼女がそう呼んだとき、澪翔の名前が自分の耳に響いた。夏の午後の空気が、少しだけふたりの間に流れ込む。
彼女の手には、小さな紙が挟まれていた。さりげなくそっと目をやると、そこには細かく日付と文字が書かれていた。なんのメモか――澪翔は気にしないふりをした。
そのまま、二人はふたりで歩き出した。
夕日が、校舎の壁を橙色に染める。遠くで蝉が、まだ鳴いていた。
澪翔の背後で、どこか遠くから聞こえた声が、かすかに「――覚えてる?」と、誰かに呼びかけていたように思えた。澪翔は振り返らなかった。ただ、胸の中の何かが、小さく響いた。
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読んでくれて、本当にありがとうございます。
この小説は最後までちゃんと書ききると自分に約束して始めました。
やっぱり、誰かに読んでもらえるって思えるだけで、全然違います。
「面白かった」「続きが気になる」って思ってもらえたら、
ぜひ“いいね”や“応援コメント”してもらえると、めちゃくちゃ励みになります。
これからも頑張って書いていくので、応援よろしくお願いします!
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