【第3章】泥だらけの辺境伯夫人、立つ

 偽りの結婚生活が始まって、翌日。

 私は休む間もなく、早速ゼノに願い出て、領地の視察を開始した。辺境伯夫人としての最初の仕事だ。与えられた裁量権を存分に行使させてもらう。

 ゼノが用意してくれた馬に乗り、いくつかの村を回ったが、その現実は想像以上に過酷だった。どこまでも続く痩せた土地。まばらに生える作物は元気がなく、冬の厳しい寒さに耐えられそうもない。家々は古びて隙間風が吹き込み、村の広場に人影はまばらで、すれ違う領民たちの表情は一様に暗く、生気がない。


「食料は、常に不足気味だ。冬を越すための備蓄で精一杯なのが現状でな」

 案内役を買って出てくれたゼノが、馬上から静かに説明する。

「これでは、新しいことなど何も始められませんわね」

 まずは、胃袋から満たさなければ。民の心が上を向かなければ、どんな改革も絵に描いた餅で終わる。前世で、数々の不採算部門を立て直してきた経験がそう告げていた。

 優先順位第一位は、食料問題の抜本的解決。私はそう判断した。


 館に戻るや否や、私は書斎に籠り、前世の知識をフル回転させる。

 この寒冷な気候……北ヨーロッパやロシアの農業が参考になるはずだ。そうだ、じゃがいも、カブ、ライ麦。これらは寒さと痩せた土地に強い。

「ゼノ様。お願いがございます」

 私は計画書を手に、ゼノの執務室のドアを叩いた。

「隣国との交易で、これらの種芋と種子を可及的速やかに入手してください。費用は私の裁量予算から。いえ、これは投資ですわ」

 私の熱意のこもった説明と、具体的な作物名が書かれたリストを見て、ゼノはわずかに目を見開いたが、すぐに「……分かった。手配しよう」と短く頷いた。彼のこういう決断の速さは、非常に好ましい。


 数日後、ゼノが確保してくれた種芋と種子が届くと、私はすぐに村の広場に領民たちを集めてもらった。

「皆様、わたくしはイザベラ・フォン・ヴァイス。この度、ゼノ様の妻となりました。皆様と共に、この土地を豊かにしていきたいと願っております」

 しかし、領民たちの反応は冷ややかだった。王都から来た、苦労知らずの美しいだけの姫様に何が分かる、という不信感が、彼らの顔にはっきりと書いてある。

 だが、そんなことで怯む私ではない。

「まず、皆様に新しい農法をご提案いたします。それは『輪作』。そして、土を元気にする『堆肥』の作り方です」

 私は持参した黒板に、分かりやすく図を書きながら説明を始めた。作物を毎年同じ場所に植えないこと。家畜の糞や枯れ葉が、素晴らしい肥料になること。領民たちはぽかんとした顔で、あるいは嘲るような目つきで私を見ている。


 言葉だけではダメだ。行動で示さなければ。

 次の日、私は動きやすい平民の娘のような服に着替え、髪をまとめると、村の共有地として借り受けた畑に立った。そして、鍬を手に取り、固い土を掘り返し始めたのだ。

「奥様!何を!?」

 村人たちがぎょっとして集まってくる。

「見ていてください。こうやって土を耕し、堆肥を混ぜ込むのです」

 私は公爵令嬢としての矜持も、泥で汚れることもかなぐり捨て、無心で働いた。畑を耕し、領民一人ひとりの家を訪ねては生活の悩みを聞き、耳を傾けた。そして、来るべき冬に備えて、前世の祖母の知恵である漬物や干し野菜の作り方を、身振り手振りを交えて実演してみせた。

 最初は遠巻きに見ていただけの領民たちも、私のあまりにひたむきな姿に、一人、また一人と手を貸してくれるようになった。


 ゼノは、そんな私の行動を、少し離れた場所から黙って見守っていた。彼が私に同行するのは、あくまで護衛のため。口出しは一切しない。それが彼との約束だったから。

 けれど、彼の氷のような灰色の瞳に、日に日に困惑と、そして驚きの色が濃くなっていくのを、私は知っていた。

 やがて、子供たちが私のことを「イザベラ様」と呼び始め、お年寄りたちが「奥様、無理なさらないで」と声をかけてくれるようになった頃。

 領民たちの間に、小さな、本当に小さな笑顔が生まれ始めていた。

 その光景を眺めていたゼノが、自分の胸に、ちりりと温かい何かが灯るのを感じていることなど、もちろん私はまだ、知る由もなかった。

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