終点、夏

天竺牡丹

第1話・涼やかな出会い

 じわじわと嫌な暑さの中、私は足早に駅へと向かっていた。帰りの電車が来るまであと十分、学校から駅までも徒歩十分。部活の帰りの点呼が長引いたせいで、汗だくになりながら急ぐ羽目になってしまった。顧問の顔を思い浮かべて軽く舌打ちをするが苛立ちは消えなかった。

 なにせ私の通う高校は田舎にあるうえ、自宅はもっと田舎なのだ。つまり電車の本数が少ない。次の電車を逃すと一時間待ちぼうけをくらうのだ。ただでさえ吹奏楽部の練習で疲れているのだから、ホームで一時間突っ立って電車を待つ苦行を強いられたくはない。

 帰り道に唯一あるコンビニから流れ出る冷気の誘惑をふりきって、私は急いで歩を進めるのだった。


 改札を素早く通りホームへ出ると、二両編成の電車が停まっていた。よかった、なんとか間に合った、と私は急いで乗り込んだ。疲れ、苛立ち、焦りから余裕のなかった私は、その電車がいつも乗っている電車と少し見た目が違うことに気がつかず、そのまま乗り込んでしまった。

 「疲れた……」

 誰もいない車内を少し不思議に思ったものの、電車に乗れた安心感から私はあまり気にしていなかった。

 不意に、前の車両から誰かが移ってきた気配がした。空いている車内で席を移動したことになんとなく不思議さを感じ顔を上げると、気配の主は私の目の前まで歩いてきた。

 目の前に立つ人は私の弟と同い年、だいたい十歳くらいの少年だった。しかし服装は弟のような半袖短パンではなく、きっちりとした制服である。私が困惑していると、目の前の少年はにこりと笑って口を開いた。

「初めまして、四季鉄道夏列車にご乗車いただき誠にありがとうございます。ナツと申します。今からあなたを夏を感じる旅にご案内する者です。お好きにお呼びください。」

 少年ナツはにこやかにそう述べた。私はと言うと、頭の整理が追いつかずに固まってしまっていた。

 明らかにいつも乗っている電車の名前と違う。第一、いつも乗っている電車には、突然話しかけてくる車掌姿の少年などいない。

「え、あ、初めまして。波柴ほづみです。あの、家まで帰れますかこれ。じゃなくて、乗る電車を間違えたので次で降りますっ!」

 焦った私は最寄駅の名前も言わずに家に帰れるかと質問してしまったし、次で降りるというどうでもいい宣言までしてしまった。

 ナツという少年は私の焦り具合を見て眉を下げ、申し訳なさそうに言った。

「突然驚かせてしまってすみません。まず、この電車はほづみさんのご自宅の最寄駅まで到着いたしますのでご安心ください。」

 私は曖昧に頷きながら話を聞いた。

「それではこの電車についてご説明いたしますね。」

 少年は再び優しい笑顔に戻ると話を続けた。

「この電車は夏を楽しむ余裕がない方、夏の楽しさや美しさを知らない方のみご乗車可能です。この電車にご乗車いただくと、目的地到着までに一つ、夏の楽しみや美しさを知っていただけるというものになっています。」

 私はまた曖昧に頷く。つまり、乗っていれば夏の風物詩を紹介してもらいながら最寄駅まで帰れるということか。

 なぜか冷静に状況を分析しつつ、余裕がない奴など失礼な、と思う。しかし余裕がないのもまた事実。大人しく口は閉じたままにしておいた。

 とにかく疲れていた私は、家に帰れるならなんでもいいか、という思考に至ったのであった。


 「では、今日は風鈴についてご紹介いたしましょう!」

 少年がそう言うと、電車に乗っていたはずが目の前の風景が趣ある縁側の風景になった。驚く私をよそに少年は話し始める。

「ほづみさん、風鈴はご存知ですね?ご自宅やご近所にはあるでしょうか?」

 そう聞かれて私は顎に手を当てる。

「うーん、思い出せないです。」

「そうですか、ではぜひ探してみてくださいね。耳を澄ますと涼しげな音が聞こえてくるかもしれませんよ。」

 少年はそう言うと縁側に座り手招きをした後、上の方を指差した。

「綺麗でしょう?風鈴は中国より伝わった風鐸が元になっているそうです。唐の時代に政治判断などに使われた占風鐸という占いに使われていた道具だそうですよ。日本には奈良時代に伝わり、災いを運んでくると信じられていた強風から守ってもらうため、風鐸の音が聞こえる範囲を聖域とし、お寺の軒の四隅にも風鐸が吊るされるようになったそうです。当時は青銅製で、見慣れたガラス製になったのは江戸時代だそうですよ。」

 どうでもいいから早く帰りたいと思っていたが、聞いてみると意外にも面白い。帰宅するまでの暇つぶしにはなると思い、私は真面目に聞くことを決めた。

「また、風鈴の音色はある力があるのだそうです。f分の一ゆらぎ、というものをご存知ですか?雨の音や波の音、火のゆらめき、心音などにみられる規則性と突発性が適度に組み合わさったゆらぎのことです。」

「あ、聞いたことあります。リラックス効果があるっていう……」

 私が口を開くと少年は嬉しそうに頷く。

「そうです。その揺らぎが風鈴の音色にもあると言われています。このリラックス効果によってα波が誘発され、安らぎを与えてくれます。風鈴の音を聴くと涼しくなる理由の一つだそうですよ。他にも風鈴の音色で涼しさを感じる要因として、条件反射、音色に含まれる高周波音や倍音などが挙げられるんです。」

 少年の言葉の切れ目に風鈴のちりん、という透き通った涼しい音が聞こえる。あれだけ暑くて不快だったのに、風鈴の音を聴くと胸いっぱいに空気を吸い込みたくなるような、清々しい気持ちになった。

「ちなみに風鈴の音で日本人は体の表面温度まで下がるそうです。風鈴に馴染みのない海外の方は、逆にリラックス効果で血行が良くなり、体温が上がる人もいるんだそうです。」

 不思議ですよね、と少年は笑い、風鈴を見上げる。それに釣られて私も風鈴を見上げた。

 短冊が風で揺れ、ちりんちりんと音が鳴る。なんだか穏やかで、懐かしい気持ちになってくる。

 少年が、最後に、と口を開いた。

「風鈴はガラス製以外にも金属製、陶磁器製、竹製などがあります。サイズや音の大きさ、音色なども種類が様々ですから、ぜひ気に入ったものを探して生活に取り入れてみてくださいね。」

 そう言って、少年は縁側から立ち上がる。すると目の前の風景は車内に戻っていた。

「さあ、到着です。よければまたご乗車くださいね。お気をつけて。」

 少年がそう言った瞬間、電車は見慣れたホームに滑り込み、ドアが開いた。

「あ、ありがとうございました。」

 私はぎこちなくお辞儀をすると、電車を降りて家までの道を歩き出した。不思議な経験だったな、と思いながらふと、少年に言われたことを思い出し、耳を澄ませてみる。

 夏の熱気をまとった風が吹いた時、どこかでちりんと音がして、少し涼しくなったような気がした。

 この道は何度も通っているのに、風鈴を吊るしている家が近所にあっただなんて気がつかなかった。今日のことがなければ多分今後も気づくことはなかっただろう。私は風鈴の音に少しご機嫌になりながら家まで帰ったのだった。暑さはさほど気にならなかった。

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