第5話 悪魔

 旧校舎に続く舗装されていない道を歩く。昼間だというのに夕方のように暗く、汗が冷えていった。薄気味悪い雰囲気が漂っていて背筋がぞわぞわとする。しばらく歩くと、旧校舎はその姿を現した。二階建ての木造校舎、昭和時代初期に建てられたと聞いており、変色した木壁が歴史の長さを物語っている。玄関前の階段に足を乗せた時、頭の中であの日聞いた見知らぬ誰かの声がした。


「願いを叶えてくれる悪魔がいるらしいよ」


 かつて自分が馬鹿馬鹿しいと毒づいた話だ。そんなものいるわけがない、と不破は心の中で言い聞かせていた。しかし、今の不破は藁にもすがりたいほど追い詰められている。もし本当に“悪魔”が存在するならば、崩れかけの崖の上に立っている不破を助け出してくれるかもしれない。一抹の希望を求めて、不破は旧校舎に踏み入れた。


 中は不破が想像していたよりも綺麗で、埃臭さなどは無い。やはりあの用務員が綺麗に清掃しているのだろう。下駄箱付近にある掲示板には、当時のものと思われるすっかり紙の端が黄ばんだ新聞が掲示されていた。華明高校の文化祭を取材した記事のようで、日付は2005年11月と書かれている。十年以上も前の掲示がまだ残っているのか。いつからここが使われなくなったのだろうか。ギシギシと鳴る廊下を進み、不破は目的地へと急いだ。心臓はまだ大きく鼓動しているが、乱れた呼吸はもう落ち着いていた。


 旧校舎は横に長く、階段はちょうど校舎の真ん中に位置している。二階の突き当りとはどちらの方向を示しているのか。東方向に進んでみたが、不破が望んでいた教室はなく、あったのは音楽室だった。広々として教室にピアノだけが残されていて、なぜか寂しさを覚えた。不破は踵を返して、反対方向の突き当りに向かった。物音を立てないように歩いたが、床が軋む音で不破は声が出そうになる。折角整った呼吸がまた荒くなり、落ち着けよと不破は手で口を押えた。


 そして、木の板に黒い字で社会科準備室と書かれたクラス札を見つけた。引き戸が並ぶ中、この教室は開き戸のようだ。不破は鈍い金色のドアノブに手をかけて扉を慎重に開けた。


 たとえ悪魔がいなかったとしても、それはこの世の中には妖怪などの非現実存在がいないことの証明となり、噂を信じている奴らを嘲笑える口実になる。でももし、本当に存在するのなら……!


 


「おや、ここにお客さんがくるとは。珍しいことがあるものだ」


 風で舞うカーテンの向こうに「それ」はいた。秋陽に照らされ、淡いミルクベージュの髪がキラキラと輝いている。陶器のように白い肌に、薄紅色の唇。妖しく蠱惑的な微笑みを浮かべる「それ」は、この世のものではないと思えるほどに美しかった。


「いやはや、何かの気配はしていたさ。どうせ近くに住んでいる野良猫なのだろうと思っていたから驚いてしまった。こんな時間にどうしたんだい? 今は授業中だろう」


 声を聞かなければ性別すら分からないほど端麗な“彼”は、座っていた書斎机から降り、不破に近づいた。琥珀色の瞳に見つめられ、不破は硬直してしまうが「悪魔なのか……?」と絞り出すような声で彼に訊ねた。


「悪魔? 確かにそう呼ばれているが、君は一体……」

「本当か!」


 悪魔と呼ばれている。確かに彼はそう言った。不破は訝しげに彼を見る。彼が着ている黒いパーカ―の下には、水色のワイシャツに青いネクタイ。黒地に薄くグレーのタータンチェックが入ったスラックス。どうみてもうちの制服だ。


「なぜ制服を着ている」

「なぜって、学校なのだから制服を着るのは当たり前だろう」


 郷に入れば郷に従えということだろうか。律儀な悪魔だな。にわかに信じがたいが彼が噂されている悪魔に違いない。その端麗な容貌が人間のものとは思えなかったからだ。不破は早速本題を切り出した。


「お前が願いを叶えてくれる悪魔だと噂を聞いてここに来た」

「ほう」


 悪魔は眉をピクリと動かし、しなやかな指で顎を一撫でした後、妖艶な笑みを浮かべた。「話を聞こうではないか」


 悪魔は「ほら」とそばにあったヴィンテージのソファを指さし、不破はそこに恐る恐る腰かけた。小さい教室、というよりは書斎のような部屋で、本棚からあふれ出した本があたりに散らばっている。ソファの横にあった古い洋書は、何語で書かれているのか不破にはよくわからなかった。英語やフランス語ではない事は確かだ。


「随分と汗だくではないか。走ってきたのかい?」

「あ、あぁ、まあな」

「暖かい飲み物しかないが、飲むかい?」


 悪魔は電気ケトルを持って不破に見せる。彼の後ろにある木製の棚の中には、地球儀や地図、教科書などが整頓されていて、端に紙コップやスティックタイプの紅茶などが入っていた。


「……その、甘いやつはあるか? 気を落ち着かせたい」

「ならミルクココアにしよう。ココアに入っているテオブロミンは、脳内ホルモンのセロトニンを増加させて、リラックスさせる効果があるという。今の君にぴったりだ」


 悪魔は隣の部屋に繋がる扉を開けて、水道で電気ケトルに水を入れた。確か隣は理科準備室だったか。まだ電気や水がこの校舎に通っていることが驚きだ。


「ここで生活しているのか?」

「基本はここにいる。前にここを使っていた人間が、この教室を私物化していたようでね。おかげで居心地が良くて困っている」


 悪魔は肩をすくめてみせた。一つ一つの動作に目が離せない。お湯を沸かしている間に、悪魔は小さな机に取手のついたホルダーを付けている紙コップを二つ並べて、ミルクココアともう片方には紅茶のティーパックを入れた。不破は握りしめていた封筒を机に置いた。中身が無事ならいいのだが、と不破は封筒を撫でて伸ばした。使い捨てのマドラーを用意していた悪魔が手を止め、封筒を見て「あぁ」と何かに納得したような声を出した。


「なんだ」

「なんでもないさ。あっ、お湯が沸いたようだよ。最近の物は早くて助かる」


 ケトルからお湯を注ぎ、ゆっくりとマドラーでかき混ぜる。ココアの甘い香りが不破の鼻孔をかすめた。「どうぞ。熱いから気を付けたまえ」と悪魔から差し出されたコップを受け取り、不破は息で冷ましてから一口飲んだ。ミルクの優しい甘みとココアの苦みが混じり合って口の中で広がる。悪魔の言った通り、リラックス効果があるのか、強張っていた不破の筋肉や肩の力がスッと抜けていった。もう二口飲んでコップを机に置いた。不破は曇ったメガネを外してベストで拭く。悪魔は書斎机にあった椅子を引っ張ってきて、机を挟んで不破の対面に座った。足を組んで紅茶を飲む姿は様になっている。「さて」と悪魔が不破を見た。


「真面目そうな君がサボってまでここに来たんだ。願いを叶えてもらおうと、君を追い込んだきっかけが気になるね。何が起こったのか教えてもらおうか。不破慎也くん」


「なんで俺の名前」と不破は驚いたが、悪魔はにっこりと笑うだけだった。不破は先ほど起きた出来事を全て話した。





「つまり君は身に覚えのないストーカー事件の犯人に仕立て上げられた、と」


 不破が話している間、悪魔は相槌を打ちながら真剣に聞いていた。不破はあの無数の目がフラッシュバックして、言葉に詰まるところもあったが、そのたびに「大丈夫だ」と悪魔は不破を落ち着かせた。


「冤罪をかけられた上に集団心理の暴走、さながら魔女裁判だ。まったく、君も普段からどういう態度をとっているんだい? 40人近い人間に嫌われることなんて、普通に生活していたら起こりえないことだぞ」


 悪魔は「はーあ」とため息をついて、まだ話が読めていない不破にはっきりと言い放った。


「つまり、君はその戸井という男に嵌められたんだ。君の幼馴染の協力を得てね。恐らく君が教室を離れている間に誰かが机の中に写真を入れた。そして、物集だったかい? 戸井達は彼女がストーカー被害にあっていることを、作戦に参加していない人間に伝えて机の中をみせてもらう。当然写真は出てこないが、物集と君が幼馴染である、親しい間柄ということを匂わせ、多数の免罪符を受けて君の机を漁った。そして彼らが作り上げた盗撮写真が出てくるわけだ」


 不破は悪魔の話を受け、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。嵌められたことより、物集が戸井達に協力していた事実にショックを隠せなかった。どうしてあいつは俺を裏切ったんだ。怒りか悲しみかわからない。不破は力強く頭を抱えて俯いてしまう。


「君と話していて思っていたが、君は少々驕傲きょうごうな部分がある。気づいているかい?」

「お前はどちらの味方なんだ。醜い凡俗なあいつらにつくというのか」

「そういうところさ。君は無意識に自分を上に立たせている。現に君は話している中で、馬鹿だの自分はあいつらより優れているだの、相手を下げて自分を上げる発言が多い。私から言わせてみれば、君の方が馬鹿で凡愚な人間だ」


 悪魔は飲み切った紅茶を置いて立ち上がった。


「君に肩入れして話を聞いていたら公平な目で判断できないだろう。被害者は君だ、間違いない。だからといって君に非が無いとは言えないよ」


 不破は勢いよく立ち上がって悪魔に噛みつくように近づいた。机が揺れてコップが倒れる。少し残ったミルクココアが零れた。


「何様のつもりだ」

「神様……と言いたいところだが、そうだね。凡愚と言ったのは謝ろう。でもこれで君もわかったんじゃないかい? 人に見下されるのは酷く気分が悪い」


 悪魔は不破の額を中指で弾いた。「痛ッ!」と額を抑える不破を見て「ははっ」と悪魔は楽しそうに笑う。この悪魔が……と文句を言おうと思ったが不破は言葉を飲み込んだ。


 こいつの言ったことは正しいのかもしれない。


 今まで不破はマウンティングをとることで自己肯定感を上げていた。見下して、自分は凡人ではないと言い聞かせて過ごしていた。実際に言葉に出すことも何度かあった。それが戸井達の癪に触ったんだろう。物集も同じように不破に対して憤りを感じていたのかもしれない。俺は気づかないうちにあいつらを、物集を傷つけていたのだ。


「俺は、生徒会長になりたいだけなんだ」


 不破が消え入りそうな声で呟くと、書斎机に腰かけていた悪魔が「へぇ……」と目を細める。


「君は生徒会長になってどうしたい」

「どうしたいって」

「トップに立ちたい? 自分は選ばれた人間だと奴らを見返したい? あぁ、きっかけは単純でもいい。始まらなければ意味がないからね」


 心を見透かされたのかと不破は思った。不破が答えようとしていることを、悪魔が先に言ったからだ。悪魔は口元に弧を描く。


「そもそもおかしいと思わないかい? 信頼も地位もない人間が、頭脳だけで生徒会長になれるんだ。華明の生徒会役員は一度でもなれば優遇される。生徒会長ならなおさらだ。しかし順位が発表され、見てみるといつもと変わらない名前が立ち並んでいる。まるでこいつらを蹴落としてくれと言わんばかりの仕組みではないか。代わり映えのないランキング、努力しても報われない。殺伐とした空気が漂い、本来生徒の代表として慕われるべき存在の生徒会役員が恨まれているのだ」


 副会長である鈴ノ宮は生徒の信頼が厚い。なぜ彼が生徒会長になれないのだと疑問の声が多いのもうなずけるし、不破も彼が上に立ったとしても嫌悪感は抱かない。そういう人間がトップに立つべきだ、と不破も思う。残念ながら、現生徒会長は神木千景とかいう存在すら怪しい人間だが。


「人生自分の思い通りにいかないからこそ楽しいんだ。願いを簡単に叶えてしまうのは面白くない。その代わり、私は君の願いを叶える手助けが出来る」


 不破がどう足掻いたとしても、ストーカーという噂は広がり続け、不破の築きあげた地位は失っていくだろう。信頼など、とうの昔に地についていた。不破は自分を試すように見つめてくる悪魔の瞳を見つめ返した。


「地位や信頼を全て持ったうえで、俺は生徒会長になりたい」


 不破の言葉を聞いて悪魔は満面に喜悦の色を浮かべた。「君の野心を隠さないところはむしろ好きだ」


「不破慎也、その名の通り君は破れない。腐りきった華明高校という小さな社会に、君は革命を起こすのだ」


 悪魔というより、神のような存在だと思った。美しく聡明で、どうしようもない自分に蜘蛛の糸を垂らしてくれている。窓から差す光が後光のように感じられた。


 遠くの方で授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。この部屋の窓からはグラウンドが見えるらしく、ありがとうございましたという威勢の良い男子生徒たちの声が聞こえた。


「おや、五時間目が終わったようだ。君も戻った方がいいのではないかい? 話の続きはまた明日にしよう」


 戻れと言われても担任の授業をサボった上に、敵しかいないあの教室に戻るのは気が引ける。躊躇う不破に悪魔は「平常心を保つんだ」とアドバイスをした。


「教師には体調が悪かったと言えば良い。初めてなのだからそれぐらい見逃してくれるさ。二度目はないだろうがね」

「でも戸井達は見逃してくれないだろ」

「なぜ君が委縮しなければならないんだ。冤罪なのだから堂々としたまえ」


 それが難しいのに簡単に言ってくれるな。まったく人の心が無いやつだ、と不破は心の中でぼやいた。


「明日には俺がストーカーなのだと噂が広まっているんだろうな。今からでも気が重くなる」


 辛うじてミルクココアで濡れなかった封筒を持って、不破は扉へと向かった。


「人の噂も七十五日というだろう? 年が明けたらみんな忘れているさ」


 と、悪魔は嗤った。前言撤回、やはりこいつは悪魔でしかない。ため息をついて不破は社会科準備室を後にした。不思議と足取りは重くなかった。


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