第4話 四面楚歌

 週末が終わり、不破はいつものように自転車に乗って学校へ向かっていた。通学路にある並木道は赤茶色に染まりかけていた。時折枯れ葉が空から降ってくる。昼間はまだ夏日といえる暑さが続いているが、朝晩は非常に冷える。ブレザーの下に薄手のワイシャツとスクールベストを着てきたが、どうやら正解だったみたいだ。


 不破は休日を挟んだおかげで冷静さを取り戻していた。金曜日のこともあり、不破の休日はひたすらに学習をしていたが、どうやらそれが効いたらしい。不破にとって、学ぶことは毒でもあり薬なのだ。苦手な国語の長文読解に苦しみ、息抜きに得意な数学を楽しむ。前回の統一テストで最後に登場した、偏微分方程式の例題を解いた。

 

 不破は数学が好きだ。一見複雑な数列も公式に当てはめていくだけで、簡単なパズルを組み立てていくようにすらすらと解けるのだ。組み立て終わった数列を見ると美しいとも思えてしまう。解き方も一つだけではない。しかし最終的に一つの答えに集結する、その魅力に不破は惹かれた。

 

 すれ違った他校の生徒が、特徴的なライトグレーのブレザーをみて「華明とか頭かたそ~」と隣の友人に話しかけているのを聞こえた。

 

 世界にあるすべての現象は数学で説明がつく。が、全てを解決できるわけではない。「華明に通っていること」と「頭が固いこと」にどういった関係性があるのだろうか。なぜこの二つが結びつくのだろうか。「頭よさそう」ならまだ理解が出来る。

 

 不破はこういったことを考えるのが大の苦手だ。そのたびに物集に質問しては彼女に説明してもらっていた。物集は他人の些細な感情の揺れ動きを見抜けるが、本人の引っ込み思案な性格のせいで、いつも怯えるように生活をしていた。不破は他人の表情を気にしないため、同調圧力に押しつぶされそうな物集の代わりに、彼女の意見を言ってやることが多かった。臆病な物集と物怖じをしない不破。性格が真反対なのになぜ仲良く出来ているのか、と不思議がられたこともあったが、むしろ対照的な二人だったから親しくなれたのだろう。

 

 信号待ちをしているときにふと思い出す。そういえば、今朝物集は早くに家を出たらしい。いつも不破の隣にあるクリーム色の自転車がなかったからだ。まぁそんな日もあるか、と不破は青になった信号をみて、再び自身の黒い自転車を漕ぎだした。





 

 

 裏門の前で自転車から降り、ゆっくりと押し歩きながら左手に付けている腕時計を確認する。八時だ。朝礼は八時半からなので、二時間目にある英語の小テストと四時間目にある熟語テストに備えて復習をするか。不破は駐輪場に向かった後、まっすぐに自分の教室がある北館へと向かった。

 

 途中、旧校舎に向かう用務員を見た。落ち葉の清掃に行くのだろう。旧校舎は老朽化もあってか、現在ほとんど使われていない。しかし現在華々しい活躍を残している卒業生たちも、かつてはあの学び舎で知識を蓄えて勉学に励んでいた。取り壊しを惜しむ声もあり、今もそのまま残されている。本校舎から離れ、木々に囲まれた場所にある古い木造の建物は、良い言い方をすれば趣がある。悪い言い方をすれば不気味でボロい。誰も好んで寄り付かないのに、清掃なんて大変だな。と不破は思った。

 

 北館は裏門から向かって正面に見える南館の奥にある。正門から入るとすぐに着くが、一年生の駐輪場として割り当てられているのが、裏門の近くにある第二駐輪場だ。最初は心の中で嘆いていた不破だが、半年も通っていたら慣れてくる。いつものように南館から入り、隣接している本館へ移動し、三階にある連絡通路を通って北館に渡る。

 

 階段を降りて、不破は二階にある一年A組の教室の扉を開けた。

「あれ」

 

 すでにクラスメイトが数人いたが、その中に物集はいなかった。あいつは早くに来て何をしてるんだ、と疑問に思ったが特に気にはならなかった。

 

 不破が自身の席に行くと、机の上に何か貼られていることに気が付く。薄いピンクの付箋に書道のお手本のような綺麗な字が書かれていた。自分宛のメッセージのようで、差出人は鈴ノ宮だ。


 『不破くんへ

  参考に欲しいと言っていたここ数年の体育祭の予算表を預かっています。大事な資料なため、

  直接お渡ししたいです。お手数ですが、都合が良いときに二年C組までお願いします。

                                         鈴ノ宮』

 

 鈴ノ宮はあの放課後の一幕のあと「ごめんね」と言ってその場を去った。その後先生に掛け合ってくれたのだろうか。やはり彼のことは嫌いになれない。不破は失礼な態度をとってしまったと反省し、きちんと彼に謝ろうと、付箋を大事に仕舞った。

 

 予定していた通りに不破は誰とも話さずに自学習に入った。結局物集は朝礼が始まるギリギリに教室に現れた。一緒に入ってきた男は、見覚えがあるけど名前が思い出せない。男は笑いながら物集の背中に触れる。やけにスキンシップが多いように見受けられるが、半年も通っていれば仲が良い友人の一人や二人できるか、と気に留めずに不破は机の上を片付け始めた。物集が不破に視線を送っていたことに気が付かずに。

 




 昼休みになり、不破は本館の一階にある食堂へと向かった。共働きの親が朝から弁当を作る余裕はない。ましてや不破が自分で作れるほど料理の才があるわけがなく、昼食は学食かコンビニ弁当で済ませている。今日の日替わり定食は生姜焼きとサラダとみそ汁、そして白米と漬物。これで400円なのだから食べ盛りの男子高校生にとってはオアシスだ。不破は空いている席を見つけて、小声で「いただきます」と言ってから黙々と食べた。不破は神や悪魔といった魑魅魍魎の類を信じていないが、幼少期から祖母に「神様と農家の人たちに感謝してから食べるのよ」と教えられているため、きちんと挨拶をするように心がけている。

 

 小テスト簡単だったな。10分休憩の時に慌てて詰め込んでいた馬鹿達とは違う。やはり自分がトップなんだ。上に立つべき存在なんだ。

 

 生姜焼きでキャベツを包み込んで食べる。不破は騒然とした食堂の中で、一人の世界に入り込んでいた。不破は自分の世界に浸ると周囲の音が聞こえなくなる悪い癖がある。ただひたすらに箸を進めながら、不破は自分自身を奮い立たせていた。柴漬けを食べて、最後にみそ汁をすする。


「ごちそうさまでした」

 

 食器を乗せたお盆を返却口に置いて、本館の三階に上がった。二年C組と書かれた教室を探して、不破は開けられた廊下側の窓から教室を覗き込んだ。「鈴ノ宮先輩」


「はーい。ごめん、ここは後で教えるね」

 

 鈴ノ宮は引き出しから封筒を取り出して、教室から出てくる。改めて隣に並ぶと171㎝ある不破より、鈴ノ宮の方が少し身長が高いことに気が付いた。


「タイミング悪かったですか?」

 

 先ほど鈴ノ宮と話していた女生徒が、教室からこちらを見ている。ギラッと不破を睨みつけているが、背中を向けていた鈴ノ宮が振り返ると、彼女は相好を崩して手を振った。なぜ俺は睨まれたんだ。


「大丈夫だよ。わざわざ来てくれてありがとね」

「いえ、こちらこそ金曜日に失礼な態度をとってしまって本当にすみませんでした」


 不破が深々とお辞儀をすると、鈴ノ宮は不破の顔を上げさせ「気にしなくていいよ」と微笑を浮かべた。


「はい。ここ数年の予算表のコピーと、今年の体育祭の種目一覧表が入ってる。前回の会議で増減した種目があるから、一度目を通してね」


 鈴ノ宮は生徒会の印が押された封筒を不破に手渡した。


「ありがとうございます。助かります」

「一年生でこういう仕事をするのは大変だろうけど、俺もなるべくサポートするから。何かあったら聞いてね」


 一年生で役員になれる生徒は限られている。前期も今期も生徒会役員の中で一年生は不破だけだ。かつて鈴ノ宮も同じ立ち位置にいたからか、不破には親身に接してくれているみたいだ。はたして自分は彼を超えられるのだろうか。


「鈴ノ宮先輩がいて良かったです」

「俺もしっかりとした後輩がいて嬉しいよ」


 どこまで出来た男なのだろう。不安を感じることもあるが、鈴ノ宮と話していると安心感が勝つ。不破は鈴ノ宮に軽く会釈をして、その場を去った。

「あと十分か」


 次の授業は担任である佐々木が担当している数学だ。自然と足が速くなる。封筒を大事に抱え、教室に入った瞬間、その場にいた人間のすべての目が不破を捉えた。やけに人の数が多い。よく見ると不破の席の周りに数名集まっていて、その中に物集もいた。


「なにしてんだ」


 不破が人混みをかき分けて物集に近づこうとしたら、朝の男が不破の前に立った。やけに髪がはねていて、油を塗ったようなテカりがある。不破が無視して先に進もうとしても、男は再び不破の前に立ちはだかる。


「邪魔だ」

「邪魔してんだよ」


 物集が「戸井くん……」と弱弱しい声で彼を呼んだ。戸井は「だいじょーぶだよ。文生ちゃんはそこにいて」と、炭酸が抜けたジュースのような甘ったるい声で物集をなだめた。戸井は「これ」と一枚の写真をひらひらと見せる。不破が眼鏡を押し上げて写真をみると、そこには物集が写っていた。物集が一人で帰っている姿で、角度からして隠れて撮っていることがわかる。


「これ、不破くんの机の中から出てきたけど」

「は?」


 思いがけない言葉に吃驚して不破の声は上ずった。戸井は不破が混乱しているのを分かったうえで、話を続けた。


「最近文生ちゃんから誰かにつけられてる気がするって相談受けてたんだよ。だから僕と和葉たちで犯人探してたら、まさかの不破くんでびっくりしたわ。明らかに盗撮だよね? 他にも数枚写真と、あと文生ちゃんが無くしたって言ってたシャーペンも出てきた。言い逃れできねぇな」

「そんなのでたらめだ」


 不破は負けじと対抗した。不破には物集を盗撮した覚えはないし、物を盗った覚えもない。そもそも放課後は、担任の佐々木が週に二回、個別に勉強会を開いている。それ以外の日も生徒会室で資料を作成しているか、まっすぐ塾に向かっているため物集に会うことはない。そんなことは物集も分かっているはずだ。しかし先ほどから物集は何も言わず、ただただ静観している。その態度も不破は疑心を抱いた。


「物集、お前もおかしいと思ってるだろ。俺がストーカーをするはずがない。そもそもシャーペンはお前が貸してくれたやつだろ? 何か言えよ。なぁ!」


 物集が「私は……」と何か言いかけて、隣にいる女に「文生に話しかけないで!」と威喝されて、不破はそれ以上話しかけられなかった。


「ここに変態ストーカーがいますー!」


 戸井は大声を上げて不破を指さした。濡れ衣を着せられていることを説明しようと、他のクラスメイトを見た。どうやら騒ぎが伝わり、廊下には多くの野次馬が集まっている。不破は自分に向けられている視線に憎悪、嫌悪の感情が込められていることに、そこで初めて分かった。


「気持ち悪い」

「最低」

「犯罪者じゃん」

「物集さん可哀想」

「てか退学じゃね」

「キモイ」


 普段聞こえなかった声が全て鮮明に聞こえた。いや違う。不破は今まで聞こえないふりをしていた。まるで断頭台に立たされている気分だ。非難され、罵倒され、濡れ衣を着せられていると弁明をしても、もはや不破の言葉を聞き入れてくれる者などいない。息が上手く吸えない。急速に喉が渇いていく。不破の顔色は青ざめ、ワイシャツは冷や汗で濡れて肌に張り付いている。ベストがさらに不快感を増していた。手が震えて封筒を落としてしまった。慌てて拾おうとしゃがみ込んだ不破を、クラスメイトが囲む。不破は顔を上げられなかった。


「その中身も盗撮写真だったりして」


 戸井の声がした。ここが断頭台なら、彼は執行人だ。鈴ノ宮からの付箋を見た戸井は、不破が中身を見せられないことを分かっていて、あえて訊ねている。そんなこと、不破が知っているはずも分かるはずもなく、ただ沈黙を貫いた。この場合、沈黙は肯定になる。


「どけ!」


 不破は無理やり道を開け、教室から走り去った。予鈴がなっているが、不破は少しでも遠くに行きたかった。生まれて初めてだ。廊下を走ったのも、授業をサボったのも。すれ違う生徒が疾走する不破を見たが、不破にはその視線が恐ろしく、叫びたい衝動に駆られた。


 いつの間にか不破は上履きのまま外に出ていた。グランドから体育教師の威圧感がある声が聞こえる。生徒会役員である不破は教師の中では顔が知られている有名人だ。どこかに身を隠そうとして辺りを見渡す。休憩している用務員を見かけて不破は今朝のことを思い出した。雑木林の向こうにある旧校舎なら誰にも見つからない。

 

 ぐしゃぐしゃになった封筒を抱えて、不破は重たい足を動かした。

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