10-4 バナナ共和国、創設

 客席の半分も埋まっていなかった。椅子のあいだにぽっかりと空いた空間が、俺の心にもぽっかりと穴をあける。


 今日の劇場は、東京の僻地にある小さなホール。アクセスも悪けりゃ、宣伝も打ってない。客入りが少ないのは当たり前だ。正直、敬老ホームのほうがよっぽど人が集まる。


 けれども、俺たちは立つ。舞台に。


 独裁ナイツじゃない。リプレイとして。


「どうもー、リプレイです」


 腰の前で両手を叩きながら、ヒトラーと一緒に袖から出る。軍服姿の彼も、同じようにぺこりと頭を下げる。その腰の低さといったら、昔の彼を知ってるやつが見たら腰抜かすかもしれない。


 客の何人かがクスクスと笑った。俺たちが姿を見せるだけで、笑ってくれる人がいる。それだけで少し救われる。


 ヒトラーは、トースターから飛び出してきたあの日から、確かに変わった。でも芯の部分はまったく変わらない。だからこそ、面白いし、怖い。


 今回のネタは、俺たちふたりで書いた。あえて毒を入れたのは、俺の提案だった。


「国の秩序とは、規律と勇気によって保たれる……。だが時に、我らは、ある種の異物と対峙せねばならん」


 ヒトラーが開口一番、軍人顔でそう言い放つ。あまりにキマってるもんだから、客がスッと引き込まれる。演説口調のクセがすでにギャグになっているのが、彼の強さだ。


「さて、晴彦。我らの前に立ち塞がる異物とは何かね?」


 俺はズボンのポケットに手を突っ込み、何かを取り出す。バナナだ。


「異物とは、バナナ」


 そういって、皮を剥き、そのままパクリと口に運ぶ。勿論、ちゃんとした本物のバナナだ。これだけで客席から笑いが洩れる。


「そのとおり、バナナだ! バナナは甘くてうまいが、食べすぎると太る。ダイエットには向いてない!」


 拳を突き上げて、絶叫。一方、俺は冷静さを保つ。


「ところでヒトラー、お前太ったな。バナナの食い過ぎか?」


 俺のツッコミに、ヒトラーは腹のあたりをつまんでみせる。


「最近、腹が出てきた。幸せは人を太らせるのだ。ならば、悲しみが減量の柱か?」

「そういえば、相方が消えて泣いてたよな」

「……あれは演技だ」


「お前、本気で悲しんでやれよ。だから太ったんだよ」

「太った総統など、総統ではない!」

「急に自己否定か。まあ、気持ちはわからんでもない」


 舞台上で目を合わせたヒトラーの瞳は、一瞬だけ陰った。けれど、すぐにいつもの演技に戻る。光のなかにある影は、むしろリアリティをおびていた。


「おお、スターリン。どこにおる? 客席におるのか? 姿を見せてくれ!」


 これで客席がどっと湧く。彼らは、爆笑王に絡んだゴタゴタを知っている。「笑っていいのか?」と戸惑う声が、喉の奥で引っかかっているのがわかる。


「まあ、幸せならいいじゃん。お前が生きてた頃は、バナナは貴重だろ?」

「食ったこともない。フルーツといえば、りんごだった」

「この前アップルパイをどか食いしてたよな。単純に食いすぎなんじゃねえか?」


「三食ラーメンという日もあった。そしておやつをモリモリ食った」

「バナナのせいじゃねえじゃん。バナナに謝れ!」

「面目ない」


 ヒトラーが深々と頭を下げる。軍帽を被ったままのお辞儀に、観客がついに吹き出した。


「ところで晴彦、お前は少し痩せたな」

「おお、イケメンになったろ?」


「まだ子供っぽいわ。早いところ子供部屋を卒業せよ」

「どこ引っ越せばいいと思う? 同居人としての意見を聞かせてくれ」


「外国人に寛容な街がいい」

「じゃあ、恵比寿で」


「家賃が高いぞ? 埼玉でいいだろ。蕨とか川口とか」

「クルド人と一緒にいると、お前までマークされるぞ?」

「そのときは迎え撃つまで!」


 ヒトラーが空手の構えをとる。客席が一瞬引きつった。ギリギリのネタだ。でも、これはヒトラーの発案だった。


 どつき合いをあえて激しくする。それが笑われるかは、賭けだ。


「ドイツ系ウクライナ人め、お笑いの世界をはちゃめちゃにしやがって。日本から出ていけ!」


 俺が叫び、正拳突きを見舞う。ヒトラーはぐはっと呻いてから、蹴りを受け止める。


「思い違いである! 悪しき日本人がいるように、悪しき外国人がいるだけである!」

「福祉を食い潰してるだろ?」

「それはデマである!」


 舞台上で本気の打撃が飛び交う。空手漫才は体力勝負だ。俺のこめかみにヒトラーの蹴りが入り、視界がチカッと光る。


 客席は沈黙。笑っていいのか、迷ってしまっている。


「もう怒ったぞ! 太っても構わん、バナナ食べちゃうもんね!」


 ヒトラーが両手に持ったバナナを皮ごとムシャムシャ食べ始める。しっかり咀嚼する様子に、客席がまたざわめいた。


 そのまま彼はポーズを決め、ヒーロー気取りで叫ぶ。とてつもないタブーを。


「ユダヤ人は我らがアーリア人の生存権を奪った! 貴様も同じか! 総統みずから鉄槌を下す!」

「ぐ、ぐはあっ!」


 俺はわざとらしく倒れながら叫んだ。


「バナナ共和国を建国しよう!」


 ヒトラーが呆然とした顔で固まる。観客も同じく、戸惑いのなかにいる。


「なんだね、バナナ共和国とは?」

「友好の証だ。そのことに今ごろ気づいた。俺が間違っていたよ、ヒトラー」


 食べかけのバナナを高く掲げながらいう。


「バナナってさ、不思議だよな。白い果肉のまわりに、黄色い皮があって、すぐ黒くなる。……なんか、人間みたいだ」


 俺の声をマイクが拾い、客席に響き渡る。急にテンションを落とし、泣きを入れた。


「同じ人間同士、仲良くできるはずだ」

「フハハ、片手では握手し、片手ではナイフを握り合うつもりかね?」

「そんな物騒な取引じゃねえよ!」


 俺はヒトラーの頭をスパンと叩いた。軍帽が吹っ飛ぶ。ようやく、観客が思いきり笑い出す。笑ってはいけない。でも、笑わずにはいられない。そんな緊張と欲望が、はじけ飛ぶ。


「しかし晴彦よ、憎しみは連鎖し、拡散するぞ。我はそのことを、だれよりもよく知っておる」

「そんじゃあ、川口に引っ越して、移民と日本人の架け橋になってくれよ」


「断る!」

「どうして?」


「秘密協定を結ばせるには、リッペントロップがいる。あいつはいま、天国におる」

「じゃあ、そいつも転生させろよ!」


「馬鹿野郎。我は転生などしておらん! ただのしがないドイツ系ウクライナ人だ!」

「その設定、かなり嘘くさいぞ。だからテレビに出れなくなったんだよ」


 俺の自虐に、客席がまた爆発する。不謹慎さのあとに訪れる、爆笑。予定調和を破壊する、危ういけど強烈な快感。


「テレビに出ないのは、主権を守るためである!」

「強がりをいうな」


 最後に、俺は手に持ったバナナを高々と掲げていう。


「俺はバナナに理想を託したい。バナナ共和国、建国するしかねえんだ……バナナ共和国、万歳!」

「……ハイル!」


 ヒトラーが追いかけるように叫ぶ。


「バナナ共和国、万歳! 万歳!」


 万歳三唱。静かだった劇場が、いまは笑いに満ちていた。どこまでが笑いで、どこまでが本気か。それをぼかしたまま、俺たちはステージの照明に包まれていた。

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