9-3 尋問の、勝利者

 警察署内には、複雑怪奇な空気が漂っていた。


 緊張とも、弛緩ともつかない。息を潜めるには緩く、笑い出すには重すぎる。署内の空調は弱いのに、だれもがうっすら汗をかいていた。


 取り調べ室の中心に、スターリンがどっかりと腰を据えていた。灰皿には半ば燃え尽きた葉巻が一本。彼は何度目かの深い一服をし、静かに煙を吐き出す。血の色を思わせる赤茶色の煙が、部屋の天井にゆらりと溶けた。


 壁のテレビでは、爆笑王の優勝者が発表されたところだった。スタジオの拍手がしばし流れ、やがてひとりの若手警官がリモコンで電源を切った。パチンという乾いた音だけが残る。


「なにやら不穏なことを洩らしていたな」


 公安の課長が口を開いた。その立場に相応しく、眼光が鋭い。だがその光も、いまは相手の前で陰って見える。


「ソマリアに拠点を作る? 世界征服? そんな冗談、本気でいうやつがいると思うか?」


 スターリンは、葉巻をくゆらせたまま口元だけで笑う。


「本気で陰謀を企む者は、それを公言したりしない。あれは笑いの延長だ。ヒトラーのリップサービスだよ」


 課長は首をかしげたまま、じっとスターリンを見た。


「だがあの目……あれは冗談の目じゃなかった。長年、犯罪者を見てきた。ヒトラーとかいう男の目は、普通じゃない。あんたの目もだ」


 スターリンは、何もいわず煙を吐く。


 課長は続けた。「瞳孔が……接着剤で固めたように動かない。あれは、人を殺しても眉ひとつ動かさない連中の目だ。俺はそういう目を何度も見てきた」


 スターリンは葉巻を口から離し、無言で課長を見つめ返した。冷めた視線だった。


「秘密警察の眼力は大したものだな。だが、お前も目が動いてないぞ?」


 課長は言葉に詰まった。数秒遅れて、「俺は、こう見えて動揺してる」とつぶやき、こう続ける。


「だが、あんたは笑ってる。それがいちばん、恐ろしい」


 取り調べ室に沈黙が下りる。ドアの外では数人の警官たちが、静かに息を殺してその様子を伺っている。笑いなど、もはやだれの口からも洩れなかった。


 スターリンは葉巻の灰を軽く落としながらいった。


「空気が重いなあ。これ以上、わしを笑う余裕すらないようだ。とっておきのネタがあるのだが?」


 課長が言葉を探し、短く返す。


「……やってみろ」


 スターリンは一拍置き、淡々と告げた。


「あれも、わしも、本物だ。芸人として生きるか、元の地位を回復させるか……議論していたが、答えは出なかった」


 課長の顔が引きつる。またそこに戻るのか、と思ったからだ。


 スターリンが秘密を告白したのか、それとも巧妙な冗談なのか。いまだに判断がつかない。そもそも、お笑い芸人の言葉に「真実」などあるのだろうか? 何度聞いても、ギャグにしか聞こえない。


 警官の一人が小声でつぶやく。


「……もし本物なら、どうなるのでしょうか?」


 課長は一瞬答えをためらい、それでも押し出すようにいい放つ。


「外交問題になる。日本一国の問題じゃ済まない」


 スターリンは、唇の端を少しだけ上げていった。


「ネタと真実の区別がつかないのは、お前の判断力が鈍いからだ。まあ、観客がいればバカウケしているところだが」


 嘲るようにいわれ、課長は不貞腐れた。なんだか最初から、子供扱いされている。


「大衆はのんき過ぎるんだよ。俺たちは笑いにきているわけじゃない」


 課長が皮肉を込めて吐き捨てるようにいうと、スターリンは唄うような声になった。


「否。彼らはわしらに恐怖を覚えているからこそ、笑っている。本物かもしれない——という不安。それが笑いの起爆剤なのだよ」


 彼は葉巻を見つめたまま、言葉を区切る。


 課長は何も返せない。ゆっくりと漂う甘い香りを嗅ぎ、時間が経つ。警察官たちは身じろぎもしない。


「まだ答えを出せないのか? わしらが本物か否か、決めるのはお前なのだ。証拠など存在しない」


「しかし……」と言葉に詰まる課長。なんの証拠もなく、自供だけで動く習慣は彼にはない。


「お前がクロだと思えば、芸人としてその名を轟かすチャンスは、薄そうだ。ヒトラーは……やる気を失うかもしれない」


 課長が机に置かれたペンをとった。


「失ったら、どうなる?」


 スターリンの目がわずかに笑った。


「違う愉しみを求める。笑われる快楽も、支配の愉悦も、根は同じだ」


 そこへ、一人の警察官が駆け込んできた。


「……パスポート、偽造でした」


 課長が低くつぶやく。


「難民という建前は嘘か……」


 ようやくひとつの証拠が揃い、課長の内心が傾いた。本物説に。


 スターリンは、その心を読みとっていたかのように、再び口を開いた。


「なぜ、わしらが日本に来たか……知りたいか?」


 だれも応じなかった。


「答えはわしにも、わからんのだ。ただ、それが笑える話になれば、それでいい」


 課長はふと思いついたようにいった。いや、それはついさっき閃いた。


「……ここにサインをしてくれ。外務省に問い合わせる。旧条約の署名が残っているはずだ」


 ペンを渡すと、スターリンは微笑みながら応じた。


「構わんよ」


 サインはファックスで送られた。静かな時間が流れる。スターリンの葉巻はとうに燃え尽き、彼は「コーヒーをくれ」とだけいった。


 三十分後、外務省から連絡が来た。


 課長が電話をとる。その顔がみるみる青ざめていく。周囲の警官たちが、固唾をのんで見守った。


「どうしました?」とだれかが尋ねる。


 課長は席に戻り、机に手をついて小さく震えながらつぶやいた。


「……筆跡鑑定は本物だった」


 沈黙。誰もが息をのんだ。


 証拠が、ふたつ揃った。しかも今度のやつは、決定的だ。


 スターリンはゆっくりと立ち上がった。冗談のような、現実のような笑みを浮かべたまま。


「とうとうバレてしまったな。しかし——違法移民として扱うにも限界があるだろう。強制送還するにも、送り返す国がないのだから」


「……確かに」


 相手がクロとわかった途端、課長の頭は切り替わった。正直、偽物のほうが扱いは簡単だった。


「わしらを封じ込めるには、正式に難民として認め、この国に止めおくべきではないか?」


 課長は思わず、自分の正気を疑いたくなった。スターリンの発言を「正しい」と思ってしまった自分がいる。


「……ヒトラーがほざいたとおり、ソマリアへ、移送してはどうかね? 日本の国力なら、移民の押しつけ程度、造作もないだろう。そこを、世界征服の拠点とする。安心しろ、日本は最後の砦にしてやる」


 課長は席を立ち、深く息を吸った。


「すまん。上司と検討する。それまでは、ホテルに泊まってくれ」

「軟禁するのか?」

「警察の監視下におかれるなら、自由に」


 スターリンは笑った。


「よろしい。晴彦に会いたいのだ。やつを、褒めてやらねばならない」


 その目は、笑っていなかった。瞳孔は相変わらず動かず、けれど生気に満ちていた。


「案ずるな、秘密警察の諸君。この世界を征服するのは、恐怖ではなく、笑いだ。アフリカに行っても、同じことをするまでよ」


 課長がためたものを吐き出すように問うた。


「もう、共産主義はやめるのか?」


 スターリンはゆっくりと答えた。


「どうだろうな。理想は、もう役に立たない。道化を演じる以外、独裁者の生き延びる道はない」


 課長はその言葉を理解したふりをして、ただ頷いた。


 スターリンが最後にいった。


「笑いとは、恐怖の抜け殻だ。人は恐怖に耐えきれないから、笑うしかないのだよ」


 課長は、苦々しく笑った。


「俺は……笑えないよ」


 スターリンは呵々大笑した。


「いいツッコミだ!」


 その声が署内に響く頃には、彼はこの大きな建物を併合していた。

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