第八章

8-1 晴彦、相方につく

 決勝戦の控え室は、息が詰まるほど静かだった。


 祭りの直前とは思えないほどの沈黙が、部屋の隅々にまで沁みていた。カーペットの毛足が足音を吸い込み、蛍光灯の音すら聞こえそうなほど、ぴたりと空気が張りつめている。


「おでん国家バージョン2、もう合わせ終わったって聞いてるけど……」


 俺がそう口を開くと、ヒトラーは何もいわず、革張りのカバーに挟まれた武術書をめくっていた。ページを繰る音が、やけに大きく感じられる。拳で頁を押し広げるその姿は、戦を前に精神統一をする武人のようだった。もはやあいつは演者を超えている。舞台の外でも恐るべき「英雄」にしか見えない。


 スターリンは部屋の隅、脚を組んで古ぼけた椅子に腰掛けていた。新聞を手にし、葉巻をくゆらせている。深く、ゆっくりと吐かれた煙が白く細い輪を描きながら、天井に向かって浮かんでいく。


「それ、キューバ産の葉巻だって?」


 俺が声をかけると、スターリンは顔を上げ、煙を一度だけ吐き出してから、わずかに頷いた。


「高価だよ。だが、昔からの贅沢は……やめられん」


 目は笑っていなかった。むしろ、どこか遠い場所を見ていた。煙の向こう、もう帰れない場所——帝国の記憶。その香りに包まれながら、ひとときだけ、過去と語り合っているようだった。


 俺は、そっとため息をついて周囲を見渡した。決勝戦の当日。いつもなら田崎社長が真っ先に現れ、開口一番に「今日はいけるぞ、お前ら!」と声を張るはずだった。でも、今日は……いない。電話もメールもない。


「今日、弁当はないようだな」


 ヒトラーがつぶやくようにいった。そこに含まれるのは、空腹の報告ではなかった。なんとなく、社長不在の現実を確認するための、儀式のような言葉だった。


「コンビニで何か買ってこようか?」


 俺が立ち上がりかけると、ヒトラーは首を横に振った。


「いや、ないならないで構わん」


 スターリンも言葉を継いだ。


「空腹こそが、逆にエネルギーを生み出す。……飢えを知らねば、真の言葉は語れん」


 ぽつりといったあとの沈黙は、重く、長かった。


 彼の発した言葉は、ひどく寂しげだった。スターリンという男が語る貧しさは、単なる生活苦ではない。時代と国を巻き込んだ、巨大な空洞だった。笑えない。真実の痛みすら感じる。


 そのときだった。


 コンコンと控えめなノックのあと、控え室の扉が開いた。


「失礼します。スターリンさん、お時間をいただけますか」


 現れたのは、数人の制服警官だった。白い手袋をはめた一人が、書類を手に立っている。抑えた声。けれど、ただならぬ気配があった。


 俺はとっさに立ち上がった。何が起きているのか、すぐには理解できなかった。


「どういうことですか?」


 一歩前に出ようとすると、警官の一人が申し訳なさそうに目線を伏せていった。


「公文書偽造の疑い、および、田崎社長に対する……脅迫の容疑です。あなたは会社を乗っ取ろうとした」


 え……社長に?


 思い当たるふしは、ある。深夜、スターリンがパソコンで何かを操作していた。


 乗っ取りとか、まさか。いや、こいつらに限って「まさか」はない。どんな非行も現実味がある。


 俺は、ヒトラーとスターリンを交互に見た。ヒトラーはすぐさま前に出て警官に向き合った。


「ならば、我も同行させてくれ。我らは一体である」


 だが、スターリンがその肩に手を置いて止めた。


「ヒトラー、お前は残れ。嫌疑はわし一人で受ける。それが筋というものだ」


 その声は低く、揺るがなかった。いつもの芝居がかった口調ではなく、生身の、切実な決断の声だった。


 ヒトラーは何かいいたげに口を開いたが、結局なにもいわなかった。無言で、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。


「……わかった」


 スターリンは立ち上がると、上着の埃を払い、帽子を手にとった。


 俺は言葉が見つからず、ただその背中を見ていた。どんな冗談も、どんなネタも、いまは役に立たなかった。


「……晴彦」


 スターリンが俺の名前を呼んだ。振り返ったその顔は、いつもの皮肉屋の顔じゃなかった。


「お前をプロデューサーに戻そうとしたのだがな。しくじった」


 そして、背中をひるがえす。筋肉質で、大きかった。


「お前は、まだ舞台にいる。……ゆめゆめ忘れるな」


 そういって、何の抵抗もなく連行されていった。ドアの閉まる音が心を軋ませる。


 俺は、どうすることもできずに立ち尽くしていた。胸の奥に、ずしりとした重みが降りたまま動かない。舞台の直前だというのに、仲間が、家族のような存在が、目の前から引き裂かれていく。


 ヒトラーが立ったまま拳を握りしめ、壁の一点を見つめていた。唇がかすかに震えていた。


「時代は、繰り返すのだな」


 だれにいうでもなく、ヒトラーがつぶやいた。


 その言葉に、俺はただ頷くしかなかった。けれど、やつの話には続きがあった。


「棄権はせんぞ。決勝戦の舞台には立つ」

「おい待てよ。ピンでやるのか?」


 突然空いた空白に、俺はおののいている。しかし、ヒトラーは高貴な目をしてこうつぶやいた。


「晴彦、貴様が相方になれ」


 それは、申し出でも、相談でも、提案でもなかった。命令。心を一直線に刺し抜く独裁者の言葉。


「俺、やれねえよ」


 咄嗟にいい返していたが、ヒトラーは引き下がらない。


「おでん国家は覚えているであろ? 今回の追加分だけを覚えろ。いまならまだ間に合う」

「嘘だろ、たった一時間で……」

「逃げることは許さん。我は貴様の『笑い』を信じておる」


 世の中に、こんなに優しい命令があるだろうか。胸が熱くなり、喉が詰まった。鼻の奥が火花を散らす。


 数十分後、舞台袖に立つ俺の足は、まだ少し震えていた。リハの記憶も、笑いの感覚も、すべてが霞んでいた。


「本番いきまーす、十秒前!」


 スタッフの声が飛ぶ。

 俺はマイクを握り直し、深く息を吸った。あいつはいない。けど——


「……俺は、もう戦うって決めたんだ」


 心の中でつぶやいた。


 ヒトラーが隣に立っている。表情はいつも通りの硬さを保っていたが、肩の揺れで緊張がわかる。


「……行くぞ、晴彦。我らが国家は、まだ滅びておらん」

「……ああ、勿論だ」


 俺は頷き、ステージに一歩踏み出した。


 まぶしい照明が目に差し込む。


 ここが戦場。俺たちの「国家」は、まだ終わっていない。終わらせるわけにはいかない。


 その思いだけを胸に、ヒトラーと舞台の中央へ歩いていった。


 ——笑いを武器に、たったふたりで。

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