7-4 ついに、警察沙汰

 翌日の昼、俺は一人で田崎芸能に赴いた。一応保護者というか、あいつらの責任者として。


「正直に言ってくれ。……あいつら、本物じゃないか?」


 その一言で、社長室の空気が変わった。静かというより、沈んだ。空調の音すら聞こえない。時間だけが、不穏なほど滑らかに流れている。


 俺は革張りのソファの縁に腰をかけたまま、曖昧な笑いを浮かべるしかなかった。


「え、何いってるんですか田崎社長。冗談きついっすよ」

「……冗談で済ませたいのは、こっちだよ」


 田崎社長は、デスクの上に無造作に置かれていた数枚の資料を手元に寄せた。写真が何枚か、顔のどアップ、ネタ中のスチル。古い新聞記事のコピー。そして、一枚だけ浮いて見える紙。そこには見慣れない印字——「公安」のロゴがはっきりとあった。


「これ、警察経由だ。素性が知りたいって照会が来た。身分証も住民票もない。戸籍の登録もない。……この日本で、だぞ?」

「それは、前に伝えたじゃないですか。難民申請の手続き中で、就労許可は貰ってると」

「警察は入管に働きかけているらしい。すべては彼らの一存だ」

「そ、そんな……」


 俺は何もいえず、ただ固まった。顔が引きつっていくのが自分でもわかる。


「あいつら、逮捕されるんすか?」


 思わず出た声は、情けないほど裏返っていた。


「そこまではいわれてないね。でもな、事務所としては限界だ。警察に目をつけられて、テレビ局に知れたら大問題になる。漫才ですで笑ってられるのも、ギリギリなんだよ」


 田崎社長は、資料を雑にひとまとめにして机に叩きつけるように置いた。深いため息。ボリュームのある髪をかき上げながら、目線を床に落としたまま吐き出す。


「正直にいう。独裁ナイツは、当面活動休止だ。……難民申請が通らない限り、もう推せない」


 ……活動休止。まるで判決みたいな響きだった。


 難民申請というが、警察の圧力で却下される確率は高まった。そうなると、国を出ていくしかない。


 俺は返す言葉を探すも、頭がセメントのように固まった。そのとき、ドアがノックもなく開いた。


「社長、失礼しま——」


 秘書が戸口で何かを伝えようとした瞬間、彼女の後ろから、あいつらが現れた。


 ヒトラーとスターリン。軍服姿のまま、まるでスーツの海に毒を一滴垂らすように、社長室の中に滑り込んできた。


「昨日は醜態をさらして面目ない」


 ヒトラーが、堂々と頭を下げた。まるで演説前の舞台挨拶のように。


「おい、勝手に入るな! ここは社長室だぞ!」


 田崎の怒声を、ヒトラーは一歩も引かずに受け止めた。


「だが議題は、我らに関するものと聞いた。ならば、出席は当然であろ?」

「よって、わしらの立ち入りは不可避である」


 スターリンも、いつもどおり淡々と補足する。息の合い方が気味悪いほど自然で、むしろ安心すらしてしまう自分がいた。


 社長の顔が歪んでいくのが、向かいのソファからでもはっきり見えた。


「お前ら……いい加減にしろよ。芸人なんだろ? 会社のルールに従え。そうじゃないなら、話はべつだがな」


 低い声。いつもの社長より明らかに重い。警告でも怒りでもない。疑念そのものだった。

 少しの間が空いて、ヒトラーが、静かに口を開いた。


「我らは……難民だ」

「戻るべき国は、もうない。地図にも、歴史にも」


 スターリンが続ける。

 社長は、黙り込んだまま、まっすぐに彼らを見つめていた。


「しかしその理屈が通らない状況になった。警察が動いてる。特に公安までもが」

「日本はソ連と違う。わしらを潰す気か? さもなくばありったけのコネを使って警察の判断を変えろ」


 やたらと偉い命令口調で、スターリンが述べた。その表情は動かない。けれど、そこにあるのは演技の仮面ではなく、なにか硬質な決意のようだった。


 どこまでが芝居で、どこまでが現実か——いや、もうそんな線引きすら意味を成さない。俺も、社長も、だれも、真実の輪郭を掴めずにいた。


「……ったく。勘弁してくれよ。こっちは芸能事務所だ。お前らが本物なら、転生ってことになる。俺は時空の管理まではしてねえんだよ」


 社長は椅子に深くもたれ、天井を見上げた。少しのあいだ、無音が続く。


 そのあと、ゆっくりと姿勢を戻し、手元の書類を一枚だけ引き寄せると、目線を彼らに戻していった。


「……じゃあ、こうしよう。三日だけ猶予をやる。本国の出生届を出せ。それまでは、活動は認める。だが、出せなければ、契約解除だ。それでいいな?」


 俺は、言葉が出せないまま、反射的に立ち上がりかけた。けれど中腰で止まってしまった。頭と体が噛み合わない。


 そのとき、スターリンが、音もなく俺の隣に立っていた。

 分厚い掌が、そっと俺の肩に置かれる。重くはない。でも、異様な熱をおびていた。


「晴彦。我らは『いま』しか持たない。明日という時間は、他人が与えるものだ」


 低い声が、耳元で囁くように続く。


「よって、我らが——奪う」


 俺が何かをいい返す前に、ヒトラーがこちらを向き、静かに頷いた。気高い目つきが、野生の狼のようだった。


 そのとき、胸の奥で何かが弾けた。音もなく、熱を持って。恐怖でも安堵でもない。もっと曖昧で、曖昧だからこそ消えないもの。それはたぶん、「覚悟」だった。


*


 その夜、俺は眠れずに、自宅のソファに座っていた。ライトだけが点いたこたつの向こう、スターリンは黙々とノートパソコンに向かっていた。


 画面には、田崎芸能の法人登記ページ。役員名簿、資本金の推移、登記印の変更履歴。芸能のはずなのに、そこにあるのは「国家」の縮図だった。


 スターリンの脇には紙の束が積まれていた。全ページに赤ペンで注釈が走っている。定款変更の手順、商業登記の様式、代理申請の可否。法務局の情報すら、あいつの手にかかれば作戦図になる。


 ——国家とは、まず書類だ。


 以前、あいつがどこかで口にした言葉が、皮肉でも冗談でもなく現実になっていく。


 モニターの隅に開かれた別タブ。そこにはこう書かれていた。


【定款変更届】——役員名義の差し替えに関する届出。


 背後から、カップの湯気が立つ匂いが届いた。ヒトラーが、紅茶を淹れている。


 部屋にはテレビもラジオの音もない。ただ、蒸気の立つ音だけがやけにやさしく響いていた。


 それでも、耳を澄ませば——確かに聞こえる気がした。

 なにかが始まる音。


 それはもう「笑い」じゃなかった。


 政治の始まる音だった。

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