3-3 先輩芸人、怒る
芸人の世界には、厳然たる「順番」がある。
売れている者。賞レースで結果を出した者。先に事務所に入った者。そういった積み重ねが、業界ではすべての判断基準となる。敬意、舞台の順番、テレビ出演のチャンス――それらは実力だけでなく、「どれだけ我慢してきたか」という年季でも測られる。俺はそれが当たり前だと、いや、むしろ正義だと信じて疑わなかった。少なくとも、「独裁ナイツ」が現れるまでは。
その日、事務所の空気はいつにも増して重たかった。だれもがパソコンの画面を見ているふりをして、実際は息を潜めていた。人の咳ひとつで、フロア全体が震えるような緊張感。ふと時計を見ると、針の音がやけに耳につく。チクタク、チクタク。こんなに音が大きかったか?
その空気を破ったのが、社長である矢部さんの何気ない一言だった。
「独裁ナイツ、テレビ決まったよ。深夜枠」
一瞬、だれかが聞き間違えたのかと思った。ローカル局の深夜番組――確かに枠は小さい。でも、地上波は地上波だ。若手芸人にとって、それは一つの選ばれし者の証明でもある。
わざわざ呼び出された俺たちは、喜んでよかった。実際、ヒトラーは鼻を高くし、スターリン口髭を歪める。
だが、問題はそこで終わらない。
独裁ナイツは、「順番」をまったく踏んでいない。芸歴も些少、ネタ見せも数えるほどしかしていない。スカウトしてきた名目の俺の説明も曖昧だ。呼称すら胡散臭い。ヒトラーとスターリンという芸名――いや、そもそもその名前で笑わせようとする感性が、いまになれば恐ろしくすら感じる。
社屋にじっとりとした沈黙が張りつき、やがて部屋の片隅から、低く押し殺したような声が洩れてきた。
「……どういうことですか、社長」
声の主はランプライターズの中原さんだった。うちの事務所の看板芸人。十年近くコンビを続け、ようやく「爆笑王」一次予選を突破した人だった。次のチャンスをもぎとるのは彼らだと思っていたし、実際そうあるべきだった。
「いまは……勢いのあるほうに、流れを作りたくてさ」と、社長の歯切れの悪い返答。
「勢い? 笑いの実力じゃなくて?」
社長のデスクに詰め寄り、ピリついた空気を拡散する。相方が「まあまあ落ち着け」と小声でなだめていたが、中原さんは引かない。
「バズったやつが正義なんですか? 運じゃないんですか? お笑い、そんな軽いもんですか?」
矢部さんはカップのコーヒーを弄びながら、視線を落としている。表情に余裕はなかった。
「……じゃあ、ネタで決めてみるか」
苦し紛れの提案だったのか、責任を外に逃がしたいだけなのか。その瞬間、社長の言葉には、はっきりと「敗北」の色が滲んでいた。
そして一時間後、急ごしらえの「ネタ対決」がおこなわれることになった。
会議室に仮設ステージを組み、事務所の芸人やスタッフが輪を作って囲む。全員、表情は強張っていた。自分の立ち位置が脅かされるかもしれない、その不安が漂っていた。冷めた視線と、うっすらとした期待。張り詰めた空気の中、ランプライターズがゆっくりと前に出た。
「どうもー、老人ホームから来ましたー!」
杖をついた中原さんが、ヨボヨボと歩きながら登場する。相方は無愛想な若者役。世代のギャップをめぐるやりとりはスムーズで、間も完璧だった。さすがの職人芸。オチもきれいに決まって、会場には一定の笑いが起こった。だれもが「うん、こういうのでいいんだよ」と頷く、そんな空気。
次は独裁ナイツの番だった。
「侵入成功!」
ドンッとダンボールが跳ね上がり、スターリンが飛び出してきた。軍服、拳銃、怒鳴り声。横ではヒトラーがヘッドセットで指令を出している。
「いま、敵のアジト内部だ。ボスを目視。作戦開始」とスターリン。
「了解。レバ刺しは控えめに」
「レバーじゃない! いってないぞ、そんなこと!」
スターリンがいきなりフラメンコを踊り出す。「威嚇の儀式だ!」と主張。ヒトラーが慌てて止めようとする。「敵が笑っておる! 撃て撃て撃て!」
意味がわからない。でも、笑える。脳が追いつく前に、笑いが出てしまう。
最後には、なぜかボス役として社長が巻き込まれ、撃たれて倒れる。手柄をめぐってスターリンとヒトラーが撃ち合い、共倒れ。
「勝者はいない……」スターリンの最期の一言に、会場がざわつき、爆笑と沈黙が同時に湧き上がった。
天才か、狂気か、ドタバタか。判断が割れる中、最初に言葉を発したのは――やはり中原さんだった。
「……俺ら、場合によったら移籍を考えます」
ざわっ、と会場の空気が揺れた。
「おい、待てよ」と相方が制止する。「いまのネタ、そんな比べるもんじゃ——」
「比べられたことが問題なんだよ」
中原さんの声は静かだった。でも、その分だけ鋭かった。
「ずっと順番守ってきた。舞台のケツも、トイレ掃除も、理不尽な説教も。全部やってきた。でも、その結果がこれかよ」
社長が口を開きかけて、すぐに閉じた。どんな言葉も言い訳になると、わかっていたのだろう。
「……やむをえん。今回は、ランプライターズでいこう」
矢部さんは小さく、だが確かにそういった。
俺は言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。胸の内で、何かが軋んでいた。正しさとは何か。順番とは何か。笑いとは、なんだったのか。
ふと、田崎社長の顔が脳裏をよぎる。
——移籍。
それが、答えなのかもしれない。でも、まだ踏ん切りはつかない。独裁ナイツをこの場所で、俺は本当に育てられるのか? 育てきれるのか?
ネタ終わりの静寂の中、拍手が起こらなかったことに、だれもが気づいていた。
爆笑の残響と、張りつめた沈黙。その狭間で、俺の中の迷いは、濁流のように渦を巻いていた。
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