2-4 ハロウィンで、笑われる
渋谷の交差点が、まるごと異世界に変わっていた。
ハロウィンの日であることを思い出した。
もともとこの街は「非現実」の発生源みたいなものだが、十月三十一日だけはその濃度が一気に跳ね上がる。午後六時を過ぎた頃には、駅前はすでに数千人規模の仮装者でごった返し、現実と虚構の境界は、とうに溶けていた。
そのカオスの真っ只中。ヒトラーとスターリンたちは、昼間にミリタリーショップで手に入れた軍服姿のまま、交差点の中心に紛れ込んでいた。
ヒトラーは、カーキ色の制服と軍帽に身を包み、鉄十字勲章を胸元に輝かせていた。首から肩、腰までぴったりと仕立てられた礼装は、街中のゾンビや魔女の衣装とは一線を画していた。どこか正装の気配すら感じさせた。
スターリンは、赤い肩章と重厚なメダルが揺れる将軍服。装いだけを見れば、旧ソ連時代のパレードの再現か、あるいは歴史映画のロケにしか見えない。けれど、彼らはあくまで「芸人」としてここに立っている。芸人でありながら、歴史そのものを着て歩く存在——その矛盾が、ひときわ強烈な違和感となって周囲に滲み出していた。
通りには無数の仮装者がいた。ゾンビ、吸血鬼、魔法少女、警察官(偽物)、囚人(こっちも偽物)、さらには巨大な寿司ネタや某アニメのキャラたち。視界のすべてが情報過多な色彩で埋め尽くされる中、ヒトラーとスターリンのふたりは、もっとも静かに異質だった。
彼らがまとう空気は、衣装だけのせいじゃない。その立ち姿、目線、微妙な表情の緩急。そのすべてが「仮装」を超えていた。視線が自然と引き寄せられる。次々とスマホが向けられ、シャッター音が交差点の喧騒に混じる。
「始めよう」
ヒトラーが低くつぶやいたその瞬間、スターリンが頷いた。「よしきた」
合図も打ち合わせもなく、ふたりは交差点の歩道角を滑るように移動する。店の看板を背に、自然に互いを向いて立った。その所作にはどこか儀式めいた静けさがあった。
そして、何の前触れもなく、声が放たれる。
「我らは――独裁ナイツ!」
言葉の響きに、空気が凍りついた。そしてすぐに、喧騒のなかから小さな笑いが洩れた。
怒涛のどつき漫才が始まった。
「国家にユーモアは不要である! 規律が緩む!」とヒトラーが絶叫するようにボケる。
「必要だ! 笑いのない国家は陰湿だ!」
スターリンが即座にツッコむ。
「陰湿? 貴様の国の話か!」
「お前んとこもな!」
やり取りの熱量は高く、それでいて言葉選びは精密だった。ギャラリーの表情が目に見えて変わっていく。驚き、戸惑い、そして——笑い。
「笑いを許さない社会は言論弾圧!」とスターリン。ヒトラーは「ユーモアの危険さをわかってない!」と吠える。
「どうでもいいが、うちの味噌汁は熱すぎだ!」
「それには同意する!」
ほとばしる熱量のまま、唐突に家庭ネタを挟み込むふたり。観客が戸惑う暇もなく笑いが続く。
やがて観客の仮装に目を向けたふたりが、次々とその姿をネタにしはじめた。
「おい、悟空! 元気玉じゃなくて核爆弾を落としてみよ!」
「ナース! その注射器、中身は思想改造用か!」
観客は自分が「笑い」に組み込まれることで一層の興奮を覚える。スマホを高く掲げる者、腹を抱える者、思わず声を上げる者。笑いは感染し、交差点の一角がまるで劇場のような空間に変わっていく。
しかし、その熱狂に冷水を浴びせるように、ふたりの警察官が近づいてきた。
制服だった。年配の一人が苦い顔をして歩み寄り、若い方が制帽を深くかぶったまま声を潜める。
「ちょっと、そのコスプレは……まずいよ」
明確な否定ではなかった。ただ、火種になりかねない「なにか」を感じ取った際の、現場の人間特有の距離感だった。
「いまの時代ね、冗談で済まないこともある。大衆扇動罪なんて法律はないけど、ほら……政治的な表現って、一応届出とか必要だから」
スターリンが口を開いた。「衣装を脱げというのか?」
「いや、脱がなくても……せめて上着くらい外してもらえると助かる」
そのとき、ヒトラーがゆっくりと一歩、前に出た。視線は真っ直ぐに警官へ向いている。
「我らに命令するとは……強制収容所に送り込むぞ?」
一瞬、背筋が凍った。俺の背中に汗がにじむ。あいつは「ん?」と可愛い顔で挑発、ハートマークまで作った。
その仕草に、周囲の観客が爆笑した。
「オラ、ヒトラーを助けるしかねえ!」
悟空のコスプレをした若者が叫んだ。その顔は冗談ではなく本気だった。
「オラ、手助けする。みんなの力を分けてくれ!」
彼は両手を空に掲げた。周囲の観客も、呼応するように両手を空に上げる。まるでその場全体が「元気玉」を練る儀式のような一体感に包まれる。
警官たちは、苦笑いを浮かべながら後退りした。
「ちょっと、君たち……いや、本当に、困るから……」
ふたりの表情は曖昧なままだったが、それ以上介入はしてこなかった。騒ぎを大きくしたくなかったのだろう。
その隙に、俺たちは足早に交差点を離脱した。
裏路地に入ると、ようやく喧騒が遠ざかり、俺たちは足を止めた。三人で顔を見合わせる。緊張が弛んだ途端、俺は思わず笑ってしまった。どうしようもない脱力感と、同時に、得体の知れない熱量への震え。
「群衆は、欲していた。我らの笑いを」
ヒトラーがポツリとつぶやいた。
それを受け、スターリンが静かに続ける。
「滑稽と、そして暴力の芽を生み出していた。笑いは革命の種かもしれない」
彼らの言葉が冗談に聞こえないのが、このふたりの怖さだ。
単純に、笑いを武器にする者の顔ではない。どこか——刃物のような鋭さと、火種のような危うさを感じる。人を狂気に巻き込むような危うさを。
だが、それこそが笑いの正体なのかもしれない。
笑いは、緊張を弛める力を持つ。だが、それは必ずしも優しさとは限らない。支配にも、破壊にも、そして煽動にも、転じうる。
今夜の交差点で、俺たちがほんの一瞬でもそれを揺るがせたのなら——この「独裁ナイツ」というアンタッチャブルなネタは、もはやただの芸では済まされないのかもしれない。
そして、それをだれより理解し始めたのが、あのふたりなのだ。
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