2-2 移籍、だと!?

 駅前の喫茶店。その店は、昭和で時間が止まったような風情があった。


 重たい木の扉を押すと、擦り切れた真鍮のベルが頼りなくチリンと鳴った。中は薄暗く、タバコの焦げ跡が残る丸いテーブルが並んでいる。壁には色あせたジャズのポスター、カウンターの中には白髪のマスターが新聞を広げていた。


 奥の席に座ると、店内には常連客らしき老人の低い咳が響く。その手前に、田崎社長がいた。


 芸能界の酸いも甘いも噛み分けた顔つき。仕立てのいいスーツの襟を整えながら、黙ってブレンドコーヒーに砂糖を五袋、音を立てて流し込んだ。


 その様子を見ながら、俺は落ち着かない気分になっていた。田崎芸能の田崎社長。伝説的な目利きで、数々の芸人やアイドルを売れっ子に押し上げた男。そんな人物と、こんな古びた喫茶店で向かい合っている。俺の掌には、汗が滲んでいた。


「君らさ、どんどこプロにいるの、正直勿体ないと思うよ」


 静かに、しかし間を置かずにいわれた。


 さすがは業界の頂点を歩く人間。駆け引きも、口火の切り方も直線的だ。スプーンでかき混ぜられたコーヒーは、もはや黒い泥水のように濁っている。


「独裁ナイツ。あれ、唯一無二になりかけてる。君が最初に世に出したんだろ? それなりのセンスがなきゃできないよ、あれは」


 社長の視線が鋭くなる。だが、俺の口はなかなか動かなかった。


 確かに、あいつらの面白さには自信がある。だれよりも、俺がいちばん理解している。でも……同時に、あいつらの存在には怖さもある。常識を超えている、いや、逸脱している。果たして、自分の手に負える代物なのか?


「……世に出すかどうか、悩んでるって顔だね」


 田崎はひと口、コーヒーをすすった。笑みを浮かべながら、続ける。


「芸人の中にはさ、自分より面白いやつを売るのを躊躇するやつがいる。無意識に、自分の立場が脅かされる気がしてね。でも君は違う。彼らを面白いと認めて、実際に引き立ててる。そういう人間に、俺は価値を感じるんだよ」


 テーブルに、封筒が差し出された。薄いが、重量感のある白封筒。中には契約書と、契約金の提示があるらしい。


「移籍の話、真面目に考えてみてよ。彼らと一緒に、うちでやってみないか? 君も含めて育てる」


 喉が詰まった。


「ところでさ、ふたりの出自って……なんなんだ?」


 出自? ぎくりとした。答えが、喉の奥で詰まる。


「……留学生、みたいな。芸能養成プログラムの、特別枠で。ウクライナからって話で……」

「へえ」


 田崎は表情を変えない。あくまで「情報」として収集している顔だった。


「あ、君……あれだよね。『しずまりたまええ!』の人でしょ。今日もやってた」


 突然、恥ずかしすぎるフレーズを言われて、思わず苦笑した。


「はい。ちょっとだけ……バズりました」

「あれ、好きだったよ。理不尽さが良かった。一昨年の爆笑王以来?」

「そうですね……まあ、最近は表には出てないです」


 田崎は、コーヒーの残りを飲み干した。


「移籍の条件がひとつだけある」


 彼の声が急に低く、重くなった。


「彼らをバズらせろ」


 核心だった。

 思わず、小さく笑ってしまった。簡単じゃない。勢いだけで連れてきたふたりだ。ソーシャルメディア映えするようなビジュアルとは裏腹に、ネタは過激だし、融通は利かない。しかも妙に真面目で、頑固。


「無理だとは思ってないよ。でも、簡単じゃないのはわかってる」


 田崎の目が、鋭く光った。


「ユーザーはね、『やばいもの』が見たいの。事故とか、事件とか、そういう類のもの。ヒトラーとスターリンのネタ? 危険だよ。でも、それがいい。正気の外側にあるものが、人を惹きつける」


「……悪のイメージを逆手に取るってことですか?」


「違う。あれはイメージじゃない。本当に、やばい。だから、だれもやってない。だから、唯一無二なんだよ」


 俺は震えていた。自分の中の「正しさ」が、グラグラと揺れていた。彼らは、面白い。心底そう思う。けど、それが爆発したとき、ただのお笑いで済むのか?


 田崎は、そんな俺の迷いもすべて見透かしたような口調で言った。


「不安になる気持ちはわかる。でも俺は、芸人への愛でやってる。金儲けは二の次。一人でも多く、面白いやつを世に出したいんだ。それだけだよ」


 ——芸人への愛。


 その言葉は、静かに胸にしみた。

 売れることに対して、どこか冷笑的だった自分がいた。でもそれ以上に、あいつらの「熱」を、俺自身が信じている。それがなにより強い根拠だった。


「……承諾します」


 そう口にした瞬間、喉の奥に詰まっていた何かが落ちた気がした。

 田崎は、ニッと笑った。


「そんじゃ、契約金の前払い分。お小遣いだと思って使って」


 胸ポケットから封筒を取り出し、テーブルに差し出した。神妙に受けとるが、十万くらいありそうだ。


「ところで、バズらせるコツ、教えてやろうか?」

「いえ……たぶん、あいつらは自分で全部作るっていいます。ネタは、絶対に譲らない」


 田崎はふふふと笑った。


「優秀な芸人は、みんなそうさ。だから面白い。だから、怖い」


 その言葉に、俺も小さく頷いた。


 スターリンの無言の重圧。ヒトラーの芝居がかった激情。軍人の顔、ハート、りんご——あれが偶然で構成されてると思ったら大間違いだ。すべて計算、すべて意志。あいつらは、なにかを掴もうとしている。


「よし。じゃあ、ふぐでも食いに行こうか」


 田崎が立ち上がった。誘いに一瞬迷ったが、俺は首を振った。


「あいつら、たぶんもうネタ作りに入ってると思います」

「へぇ、やっぱ本物だな」


 そのときの社長の目には、微かに畏れすら宿っていた。


 瞬間、俺は確信した。


 間違いなく、あいつらは突き抜ける。


 ただし、どこへ行くかはだれにもわからない。

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