第二章

2-1 晴彦の復帰、早くも転機

 夕方、アーケードの隙間から吹き込む風が、肌を刺すように冷たかった。寂れた通りの突き当たりにある小劇場の入り口には、ビニールテープで修繕されたフライヤーが貼られている。風に煽られて、そのフライヤーが、悲鳴のようにカシャカシャと鳴った。


 それをぼんやり見上げながら、俺は缶コーヒーをすする。もう熱はほとんど残っていない。舌に残るのは苦味とも焦げともつかない、疲労に似た後味だけだった。


 ……舞台に立つのは、いつぶりだろうか。


 正確にいえば、「芸人」として観客の前に立つのは、あの夜以来だ。あの敗北と悔恨にまみれた夜を最後に、俺は表舞台から姿を消した。そしていま、もう一度ここに戻ってきた。


 楽屋に入ると、いつものようにヒトラーがソファに深く腰かけ、ネタ帳を読み込んでいた。眉間に深い皺を寄せ、まるで軍事作戦を練る参謀のような面持ちで、ページをめくる指先すら張り詰めている。


 そのノートには、戦略地図のように密集した文字と線が走り、余白はほとんどなかった。ネタ帳というより、「指令書」と呼んだほうがふさわしい。


 一方、スターリンは部屋の隅の椅子に腰掛け、何も喋らず、ただ無言で床を見つめていた。あまりに動かないので、一瞬、本物の蝋人形かと錯覚するほどだ。


「で、あのふたりってさ……なに人?」


 背後で誰かが、ひそひそ声で囁いた。見ると、同じライブに出る若手芸人たちが、気まずそうにこちらを見ている。


「やばくね? 空気」と小声で聞かれる。無視するわけにはいかない。


「ウクライナから来た留学生らしいよ。たぶん公金とかなんとか……なんかの研修枠で。ほら、芸能文化交流とか、そういうやつ」


 俺は曖昧な笑みを浮かべてごまかした。


「おまえんとこの枠、バグってんじゃん……」


 呆れとも感心ともつかない声が返ってきた。だがそれも、長くは続かなかった。楽屋の空気が、突如として緊張をおび始めたのだ。


 劇場の入り口から、場違いなほどきっちりとスーツを着こなした男が現れた。黒々とした髪、落ち着いた足取り、そしてなにより周囲を圧倒する威圧感。


 田崎芸能の田崎社長——この業界で、その名を知らぬ者はいない。劇場の隅に彼の姿を見た瞬間、俺の喉が渇いた。


 なぜここに?


 彼のような人間が、小劇場に来ることはまずない。だからこそ意味がある。青田買い——つまり、今日この場所に、何かを見に来ているということだ。


 俺か? まさか、独裁ナイツか? まさか、こんな夜が——俺にとっての転機なのか?


 そんな期待と緊張の最中、幕が上がった。


 舞台に立ったヒトラーとスターリン。


 彼らが現れた瞬間、場内の空気が変わった。観客の誰もが言葉を失い、身を固くした。存在そのものが、すでに「ネタ」だった。いや、ネタなどではすまされない何かだった。


 スターリンは一言も喋らず、直立不動のまま照明を浴びる。軍人のような佇まいで、沈黙がじわじわと空気を圧迫していく。ジャージ姿なのが、せめてもの救いだ。


 ヒトラーが一歩前に出た。


「なぜ喋らない!? 民衆の声はどこへいった!」


 その声は、漫才のツッコミとは思えなかった。鋭く、重く、観客を貫くような演説口調。言葉の選び方すら時代錯誤だ。それが、むしろ不気味な魅力になっている。


 スターリンはポケットから、りんごを取り出した。

 無言でかじる。音だけが響く。


 それが何を象徴しているのか。禁断の果実か、原罪か、ただの間食か? 観客はだれも読めない。


 ヒトラーが机を叩くポーズをとった。


「これは処分せねばならん! 我らの正義が、果たされておらん! 沈黙してよい民衆はどこにもおらん!」


 その異様なテンションに、客席は困惑していた。笑っていいのか、悪いのか。判断がつかない。


 そこでようやく、スターリンが重い口を開いた。


「いや、シベリア送りとなった犯罪者の声は奪うのみ」


 ヒトラーがすかさず食い下がる。


「そんな調子だからソ連は滅んだ! 貴様は指導者失格である!」

「確かに、わしは人民を殺しすぎた。だが、それは期待の裏返しである」

「何を期待しておった?」

「愛国心だ」


 スターリンは悲しみを湛えていった。一拍置いて、ツッコミが入る。


「そんなものない! 民衆が求めるのは指導者である。強くて偉大な指導者!」

「ならば、わしらは失格だ。ただの芸人に落ちぶれた」

「客に笑われる指導者などおらんよな。やむを得ん、とっておきの勝利万歳ジークハイル!」

「笑えん。怖いだけだ」


 ヒトラーは、突然ハートマークを作って客席に叫んだ。


「ジークハイル♡」


 凍りついた。


 一瞬の沈黙。観客の誰もが固まった。

 ……が、次の瞬間、爆笑が起きた。


 戸惑いと恐怖と滑稽さが混ざり合った「ズレ」が、観客の防御を突き破ったのだ。そこにこそ、このコンビの本質がある。


 俺の出番はそのあとだった。


 一人漫才で懐かしのネタ「しずまりたまええ!」を出してみた。反応は悪くはない。笑ってはくれた。でも、心に残るかといえば微妙だ。


 それでも、最後までやりきった。堂々と舞台を降りた。それで十分だった。


「お前のギャップ芸はいける。今後も使っていけ」

「我もそう思った。笑顔を作れれば、満点だ」


 ヒトラーとスターリンは、自分たちの芸を分析し、廊下を歩いている。研究熱心な芸人にしか見えねえ。


 楽屋に戻ろうとしたとき、ドアの前に田崎社長が立っていた。壁に背をつき、腕を組んでいる。


「少し、時間もらえる?」


 心臓が跳ねる音が、自分でも聞こえた気がした。

 ヒトラーとスターリンは目を合わせて、少し戸惑ったような顔をした。


 俺はいった。


「自分、こいつらのプロデューサーなんで。話は俺が聞きます」


 社長はにやりと笑い、いった。


「じゃあ、外に出ようか」


 その笑顔が、何を意味するのか。答えはまだわからない。


 ただひとつ、確かにいえるのは——

 この夜、何かが動き始めた。

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