第8話 たぶん、それでもいい

 月曜の朝、オフィスの空気はどこか湿っていた。


  月曜の朝、オフィスの空気はどこか乾いていた。


 立冬を迎えたばかりの11月。ひんやりとした風がコートの隙間から忍び込んでくる。外の空気は冬の気配をまとい始めているのに、ビルの中は暖房と人いきれで、むしろ少しだけ蒸していた。

 週明け独特の倦怠感。ビルの自動ドアをくぐった瞬間、ぬるい空気に全身を包まれたような気がした。


「おはようございます」


「あー、おはよ、千葉くん」


 部署のドアを開けると、すでに何人かが席についていた。コピー機の横で市川が誰かと雑談している。久住先輩の姿も、デスクの奥にあった。ノートパソコンを開き、資料らしき紙を黙々と読み込んでいる。こちらには気づいていないようだ。


 声、かけようか。


 でも、用事はない。ただ「おはようございます」と言うだけ。


 それだけの言葉が、妙に重たい。


 僕が口を開いても、たぶん彼女は顔を上げないまま、あいさつだけ返して終わるだろう。いや、あいさつさえ、返ってこないかもしれない。


 ……いや、それは被害妄想すぎるな。


 でも、今さらすぎて、なんとなくタイミングを逃してしまった。


 久住先輩の横を、何気ない顔をして通りすぎる。その視線が一度もこちらを向かなかったことに、ほっとするような、寂しいような、よくわからない気持ちになる。


 そのときだった。


「──あっ、やば……!」


 廊下の向こう、会議室の前あたりで誰かの声がした。


 見ると、一人の女性社員が手にしていた資料を床にぶちまけていた。派手に広がった白い紙の束。中にはホチキスで留められていたものもあり、あちこちに散乱している。


 周囲の人たちは一瞬だけ視線を向けたものの、遠巻きに見るだけ。よくある、よくある──そんな空気。


  僕は自然と、足を止めていた。


「大丈夫ですか?」


「すみません……あ、あの、大丈夫です……!」


 慌ててかがみ込む女性社員。見覚えがない顔だ。たしか今年入ったばかりの新人だろうか。名札には「稲毛」とあった。


 彼女の手元にしゃがみこみ、僕も一緒に資料を集めはじめる。


「僕も前にやったことあります、こういうの。なんか、落ちた資料って異常に散らばりますよね。重力を超えてる気がするというか……」


「ふふっ……それ、わかります。ほんと、バラバラになりますよね」


 稲毛さんは少しだけ笑った。さっきまでの動揺が和らいだようで、ほっとした表情になっている。


「ありがとうございます、助かりました」


「いえ、僕もたまにやらかすので……気をつけてくださいね」


「はい、ありがとうございます。千葉さん、ですよね……?」


「そうです、営業三課です」


「あ、やっぱり。市川さんと同期なんですね。……実は、市川さんから“優しい先輩がいる”って聞いてて」


「……えっ」


「うち、営業二課なんですけど……なんか、“困ってたらすぐ助けてくれる人がいる”って。それで、ちょっと会ってみたいなって、こっそり思ってたんです」


 そう言って、稲毛さんは少しだけ照れたように笑った。


 笑顔で小さく頭を下げる彼女。その姿を見ながら、なんとなく自分も救われたような気がしていた。


 遠く、視線を感じてふと顔を上げる。


 廊下の先、給湯室の近くに──久住先輩がいた。


 こちらに背を向ける直前だった。彼女が立ち止まっていたかどうかは分からない。ただ、なんとなく視線が届いていたような、そんな気がして、胸の奥がくすぐったくなる。


 見てくれてたのかもしれない。そんなふうに思うだけで、少しだけ救われる気がした。


 ──けれど、その時の久住は。


 給湯室の入り口、ペットボトルのキャップを握りながら、しばらく動けずにいた。


 困っている人に自然と手を差しのべるその姿は、確かに“いい人”だ。けれど、それはきっと、誰に対しても同じなんだろう──そう、いつでも、どこでも、誰にでも。


 その無差別な優しさが、どうしようもなく“千葉らしい”と分かっているからこそ、嫌悪も嫉妬も抱けなかった。


 でも──


(……やっぱり、そういうところが、苦手)


 ほんの少しだけ、胸の奥がざらつく。


 誰かに向けられた優しさが、なぜか自分を遠ざけていく。そんな感覚。


 ふと、視線を落として一口だけ水を飲む。


 気づかれないように、その場を離れた。



  昼休み、近くのコンビニでカップ味噌汁とサラダチキンを買って席に戻ると、ちょうど隣に市川が腰を下ろした。


「先輩、今日の朝、稲毛となんかあったんすか?」


「えっ、いや……資料落としたの拾っただけだよ」


「あー、やっぱり。稲毛、さっき“やっぱり千葉先輩、噂通り優しかった”って言ってましたよ」


「……噂?」


「うん。稲毛、営業二課なんですけど──うち(三課)とは隣の課じゃないですか。同期の中でも、あいつとはわりと仲良い方なんで。たまに雑談とかしてるんですけど、こないだも“千葉先輩ってどんな人?”って聞かれて」


「……なんて答えたの?」


「“まあ、無害な人”って」


「……お前、それ褒めてるつもり?」


「めちゃ褒めてますって。柔らかい空気持ってて、人当たりがいいって意味ですよ。千葉先輩はモテそうでモテない代表なんですから」


「……今、地味に傷ついた」


「でも稲毛、今日けっこう嬉しそうでしたよ。“あ、ほんとに優しかった”って。話してみたかったって言ってました」


「……え、それ初耳……」


「知らないところで勝手に好感度上がってるやつっすね。まさに罪な男だなぁ」

「ま、僕は好きっすけどね、そういうとこ」


 茶化すように笑いながら、カップラーメンにお湯を注ぐ市川。彼のこういう距離感の詰め方は、正直少しうらやましい。


「そういえば先輩、久住さんのことも気づいてました?」


「え?」


「……あれ、気づいてなかったんですか? 朝、久住さん、見てましたよ。稲毛さんと話してたの。給湯室のとこから」


「……うそ」


「本当。表情は読めなかったですけど、しばらく見てたっぽい。ああいうとこ、結構見てるんですよね、あの人」


 市川はわざとらしく両手を広げてみせた。


「気をつけてくださいよ〜? 意外と観察されてますから、僕ら」


 笑いながら去っていった市川の背中を見つめながら、心の奥にじんわりとした熱が広がっていた。


 気づいてたのか──いや、気づいてたとして、それが何か意味があるのかは分からない。でも、少なくとも僕は、あの時の自分を、少しだけ肯定できた気がしていた。



  終業時刻を過ぎた頃、メールチェックを終えてパソコンを閉じた。


 ふと顔を上げると、久住先輩が立ち上がるところだった。


 彼女はロッカーからカバンを取り出し、軽く首を回すようにして背伸びをする。思わず目で追いかけてしまう自分がいる。


 同じタイミングで退社するなんて、珍しい。


 僕は席を立ち、少し間を空けてエレベーターに向かった。


 ──ちょうど、久住先輩がボタンを押したところだった。


「あ……」


 僕の姿に気づき、先輩はほんの一瞬だけ眉を上げた。でも、それ以上の表情はなかった。


 エレベーターが開き、二人で乗り込む。


 静かに扉が閉まる。誰も乗ってこなかった。久しぶりの、二人きり。


 沈黙。階数表示が、ひとつずつ下がっていく。


 ……気まずい、という空気ではない。でも、会話が自然に始まるほどの距離感でもなかった。


 それでも、このまま無言で下まで着いてしまうのは、なんだか寂しかった。


 意を決して、僕は口を開いた。


「……あの、このあと、大学の友達と飲みに行くんです」


「……ふうん」


 そっけない返事。けれど、完全に会話を断つような空気でもなかった。


「久しぶりに会うんです。ちょっと変わってて……でも、なんか会うと元気もらえるというか」


 エピソードを深く語るわけでもなく、ただぽつぽつと話す。久住先輩は、黙って耳を傾けていた。


 返事はなかったけれど、「うるさい」とも言われなかった。それだけで十分だった。


 5階。


 4階。


 3階。


 沈黙が戻る。


 けれど、その直後だった。


「……この前の、あれ」


 久住先輩が、不意に口を開いた。


「一人で案件対応してくれたやつ」


「……ああ」


「改めてだけど、助かった」


 その言葉が、意外だった。


 そんなに深い意味はないのかもしれない。でも、口にしてくれたこと自体が、たぶん大きな意味を持っている。


 僕は思わず言ってしまった。


「僕なんかで……よかったんですか?」


 久住先輩は、少しだけ目を丸くした。それから、ほんのわずかに視線をそらして──


「……別に、“よかった”とは言ってないけど」


 エレベーターの中に、わずかな沈黙が流れる。


 でも、先輩の声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかく聞こえた。


 2階。


 1階。


 扉が開くと、久住先輩は先に歩き出した。


 振り返りはしなかったけれど、その背中はいつもより、ほんの少しだけ──遠くなかった。


 たぶん、それだけでいい。


 ……もしかして、朝、誰かを助けたからだろうか。


 最後に、いいことしたから運が巡ってきたのかな。


 そんな都合のいいことを、つい考えてしまう。


 でも──


 もしそうだとしても、今はちょっと、信じてみたい気分だった。

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