第7話 それでも見ていたくて

気づいたときには、もう目で追っていた。

 別に、特別な出来事があったわけじゃない。ただ、ふと視界の端に久住先輩の姿が入った。それだけだった。


 けれど、僕の意識は自然とそちらに引っ張られていた。

 斜め前方。デスクに座った久住先輩が電話対応をしている。いつも通りのスーツ姿で、背筋をまっすぐに伸ばしている。その姿勢はまるで、そこだけ時間が止まっているように凛としていた。


 口元は控えめに動いているだけで、声は聞こえない。けれど、その話し方が落ち着いていて、丁寧で、正確なものだと、なぜか確信できた。


 手元にはメモ帳。さらさらと書き込まれる文字は、いつ見ても無駄がない。

 些細なことだけど、僕にはできないことばかりだ。僕だったら緊張して、口ごもってしまうかもしれないし、メモの字だってきっと歪んでしまう。


 だけど彼女は、平然としている。冷静で、整っていて。

 完璧すぎる、なんて言葉を使いたくなるくらいに、隙がない。


 ――なのに。


 電話が終わり、受話器を静かに置いたその一瞬。

 彼女の顔が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。


 眉の角度。まぶたの重さ。

 ほんの一瞬だけ、張り詰めた緊張が解けたような、そんな表情。

 誰も気づかなかったかもしれない。でも、僕の目は確かにそれを捉えていた。


 その瞬間、心の奥がわずかに揺れた。

 ああ、と思った。

 この人も、完璧じゃないんだ――って。


 そしてたぶん、それを知れたことが、僕にとっては、少しだけうれしかった。


「……ちーばパイセン?」


 その時、不意に声をかけられた。

 反射的に肩が跳ねる。視線を逸らし、咄嗟に姿勢を正した。


「何、ガン見してんすか。こっちまで緊張しますって」


 軽く笑いながら近づいてきたのは、市川だった。後輩だけど、人の感情に敏感で、なんというか、たぶん勘が鋭いタイプ。


「え? ……いや、別に。なんとなく、ぼーっとしてただけ」


「ふーん?」

 市川はニヤニヤしながら僕の顔を覗き込む。


「その“なんとなく”の視線、完全にロックオンでしたけどね。ってか、千葉さんって、好きな人にバレバレになるタイプっすよね」


「ちょ、ちょっと待って。誰が好きって――」


「いや言ってない言ってない。俺、そんな断定してないっすよ?」

 口元に人差し指を当てながら、彼はわざとらしく首を傾げた。


「……まじでやめてくれ」


 顔が熱くなる。

 なに言ってんだよ、ほんと。そんなわけ――


 ……ない、はずなのに。


「ま、否定はしないでおきますよ。千葉さんって、自分の気持ちに鈍いところあるからさ。あとから“あれ、そうだったのかも”って気づくタイプでしょ?」


「……うるさいな」


「でも、そういう人って、気づいたときにめっちゃ真っ直ぐだから。見てておもしろいんすよね。がんばってくださいね、セーンパイっ」


 そう言って、市川はひらりと手を振って自分の席に戻っていった。


 ……あいつ、本当に鋭いんだよな。

 そして、ああ言ってくれるくせに、茶化し方が絶妙に優しい。


 でも、そんな市川の言葉が、頭から離れなかった。


 僕は――本当に、見ていた。

 久住先輩の、さっきの表情も。会話のトーンも。細かい仕草さえも。

 それが“好き”なのかどうかはわからないけど、ただの尊敬とも違う何かが、自分の中で動いているのを感じていた。


 人として惹かれてる? それとも……。


 思考がふわふわと宙を泳いで、結論が出ないまま、仕事に戻った。


* * *


 帰り道。

 都心の駅構内は、いつもと変わらず人でごった返していた。


 改札を抜け、乗り換えのために階段を下りる。

 そのとき、向かいのホームに立っている人影に目が留まった。


 ――久住先輩だ。


 無意識に足が止まった。

 見ようと思ったわけじゃないのに、気づけば目で追っていた。

 彼女はスマホを片手に、静かに画面を見つめていた。

 スーツ姿の背中はきちんと伸びていて、どこか緊張感すら感じさせる。


 でも、その横顔はどこか疲れているようにも見えた。

 目元や口元に、ほんの少しだけ張りつめたものが緩んでいる。

 たぶん、今日も完璧なふりをして、一日を終えたのだろう。

 そのふりが、きっと誰より上手で、誰よりも無理をしている人なんだ。


 彼女は、スマホをしまい、少しだけ空を見上げたあと、ベンチに腰を下ろした。

 誰にも見られていないと思っているその仕草は、少しだけ気が抜けていて。

 その姿に、僕の胸の奥がじんわりと熱くなる。


 声なんて届かない距離だった。

 でも、だからこそ、安心して見ていられたのかもしれない。


 もしこの距離がもっと近かったら。

 もし、同じホームにいたとしたら――

 僕はきっと、視線を逸らしていたと思う。


 周囲の喧騒。電車の接近音。


 ――声がかけられたなら。


 その言葉が頭をよぎった瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 反対ホーム。

 向こう側に立つ彼女に、僕の声は届かない。

 それは、ただの物理的な距離じゃない。

 言葉にすれば、きっと“気になっている”って気持ちが全部、透けて見えてしまう。

 そんな勇気は――僕にはなかった。


 向こうに届くはずのない視線だけを投げて、僕は静かに立ち尽くしていた。

 もし、彼女がこちらに気づいても、きっと僕は目を逸らしていただろう。

 それが怖くて、ただ見つめることしかできなかった。


 やがて、電車がホームに滑り込んできた。

 久住先輩はスマホをしまい、立ち上がると、まっすぐ前を向いた。

 迷いも戸惑いもない足取りで、開いたドアへと向かっていく。


 その後ろ姿を、僕はただ、目で追っていた。


 ガラス越しに彼女が電車へと乗り込み、やがて扉が閉まる。

 電車は動き出し、視界から久住先輩の姿がゆっくりと遠ざかっていく。


 もし同じホームだったら。

 もし少しでも近くにいたなら――

 僕は声をかけられただろうか。


 ……いや、きっとそれでも、立ち尽くしていただけな気がする。


* * *


 夜、自宅のベッドに寝転がりながら、天井を見つめていた。


 こうして1日が終わっても、頭のなかにずっと残っているのは、久住先輩の姿だった。

 会社での凛とした姿。

 仕事の疲れを滲ませた帰り道の表情。


 両方とも、僕にとっては特別な何かだった。


 ――これまで、誰かを“気になった”ことがあっただろうか。


 恋愛らしい恋愛なんて、まともにしてきた記憶がない。

 高校のとき、少しだけ心が揺れたことはあった。

 同じクラスで、よく話すようになって。放課後にたまたま二人きりになることもあって。

 ――もしかして、と、思った時期もあった。


 でも、それは僕の勘違いだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、最後にはうまくいかなかった。

 その記憶は、今でも胸の奥に、少しだけ苦いまま残っている。


 それから先、誰かと向き合うことが、どこか怖くなった。

 期待して、勝手に浮かれて、そして一人で落ちていく――そんな自分が、嫌だった。


 大学では、恋をして、告白して、付き合って、振られて……

 そんなふうに感情をまっすぐぶつけ合える人たちが、まぶしく見えた。

 自分にはきっと、あんなふうにはなれないと思って、距離を置くようになった。


 “誰かの特別になる”なんて、僕には縁のない話だと、ずっと思っていた。

 その資格が、自分にはないとすら思っていた。


 だけど――今の僕は。


 久住先輩の、ささいな仕草に心を奪われる。

 仕事中の真剣なまなざしも、駅のホームで見せた小さなため息も。

 どれも、胸の奥に残って、離れない。


 最初は、ただの憧れだった。

 自分にはないものを持っていて、強くて、美しくて。

 ただ見ているだけで、十分だった。


 ……でも、今はもう、それじゃ足りない。


 彼女の気持ちを知りたいと思ってしまう。

 喜んでほしい、笑ってほしい――そんなふうに願っている自分がいる。


 この気持ちに、まだ名前はつけられない。

 それに、やっぱり怖さもある。

 誰かの特別になることに、自信なんて、まだ持てない。


 でも、それでも――きっと。

 僕は、久住先輩のことを、好きになりかけている。

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