第二話 「商人の眼、航海の道」
夜の海は深く、黒い絨毯のように広がっていた。甲板に立つセイラは、潮風を受けながら水平線を見つめる。冬の海は冷たく、刺すような風がローブの裾を揺らす。
「……波の音、少し落ち着いたかしら」
その声は低く、しかし確かな指標のように周囲に響いた。
アルヴァは肩をすくめ、鼻歌混じりに歩く。
「落ち着く暇なんてないさ。ほら、俺たちの前には――まだ誰も知らぬ旋律が躍ってる。そうは思わないか?」
リリアナが小首を傾け、冷えた夜気を吸い込む。
――そのとき、波間から黒い影が迫った。
「……海賊か」
アルヴァの声には緊張と、どこか楽しげな響きが混じっていた。
小舟が船縁に迫り、同時に海中からは鱗を持つ魔物が跳ね上がる。冷たい海風が甲板を吹き抜け、波しぶきとともに襲いかかった。
船員たちは剣を抜き応戦するが、数の多さと船の揺れに押される。魔法使いたちも火花や氷槍を放つが、甲板の広さでは的を捉えきれなかった。
混乱の中、ひときわ冷静な動きがあった。
黒鉄のモノクル越しに観察を重ねるバルク=アズマ。拳に魔力を集中させたその動きは精密で、無駄がない。
拳を振るうたび、敵の筋肉の動きや呼吸が読み取られる。
「数は多い……だが、意思は脆い」
低い声が、冷ややかに事実を告げた。
小瓶を割って煙を撒き、敵の視界を潰して一点に追い込む。船の揺れすら計算に入れ、拳を叩き込む。衝撃が甲板を響かせ、海魔は呻いて仰け反った。
「恐怖を与えれば、命知らずも崩れる」
理詰めの戦略が、ひとつひとつ形となる。
セイラはヴェールの奥で鋭く視線を走らせ、アルヴァは笑いながら弦を爪弾く。リリアナは舞のように身を翻し、煙と光を縫いながら戦況を見守った。
やがて混乱は収束し、海賊も海魔も退けられた。船員たちは安堵の息をつき、バルクは淡々と応急の処置を指示する。
「怪我の手当を。大きな傷は見えない……落ち着いて動け」
低く落ち着いた声に、誰もがわずかな安心を覚える。
セイラは胸の奥で感じ取った。
――この青年は、ただの商人ではない。誠実で固い理性と、頼れる兄のような強さを兼ね備えている。
夜空に星が瞬き始め、甲板に静けさが戻る。
バルクは空を仰ぎ、低く語りだした。
「……師の遺志があります。古代魔導具を記録し、後世に伝えること。それが私に託された使命です。だが、記録だけでは足りない。未来を照らすためには、行動で示さねばならない」
セイラは静かに頷き、アルヴァは笑み混じりに肩をすくめる。
「なるほど。知識を残すだけじゃなく、それを守る者でもあるわけか」
モノクル越しの瞳が光を反射する。
「旅人の眼は未来を探し、商人の眼は過去を記録する。……だが、同じ空を見上げているのです」
夜はさらに深まり、港の町の灯はすでに遠くに消えていた。セイラは冷えた手をローブの袖に隠し、遠くに瞬く波間の灯を見やる。
「港町も、すっかり遠くなりましたね」
アルヴァは肩越しに空を見上げた。
「遠ざかる町を眺めると、不思議な気分だ。戻れないような気もするが……それでいいさ」
リリアナは軽く頷き、仮面の奥で小さな微笑を浮かべた。
そのとき、バルクが航海図を手にし、低く呟く。
「遺跡への航路は難しい。冬の海は潮流が複雑に交錯する。風向き、波の高さ、船の揺れ……すべてが計算に含まれるべき要素です」
アルヴァが感嘆の声を漏らす。
「ほう、商売人というよりは戦略家だな」
「数字や計算だけでは足りません」
バルクは拳を握り直す。
「もし再び敵が現れれば、戦術を組み替える必要がある。仲間の力を最も活かす――私の役目は、その調整です」
セイラは頷き、彼の冷静な洞察に確かな信頼を覚えた。
――知識と分析、そして行動。その融合こそが、未知に挑む力となる。
船室では簡素な食事が並べられ、四人は卓を囲む。バルクは道具を整えながら淡々と続けた。
「師から託されたのは、古き遺物の記録と保存。しかし未知の地に挑むには、観察と分析だけでなく、行動が必要です」
リリアナが仮面の奥で微笑み、問いを投げる。
「行動する者……つまり、旅人としてのあなたでもあるのね?」
バルクは短く頷く。
「記録者は観察者であり分析者。けれど同時に、行動する者でなければならない。安全を確保し、価値あるものを未来へ残す――それが私の役割です」
アルヴァは杯を掲げて笑う。
「なるほどな、兄貴分……いや、戦略家だな。頼もしいぜ」
バルクは控えめに口元をゆるめ、整然と荷を整える。薬草、応急具、測定道具……すべてが無駄なく並び、準備は滞りない。
セイラはその様子を見て心に刻む。
――力任せでは届かない。知識と技術、そして冷静な意志と行動があればこそ、未知に挑める。
やがて甲板に戻ると、星々が冬の海に散りばめられ、波間に映えて揺れていた。
「この星の数だけ、世界の物語があるのですね」
セイラの言葉に、バルクは静かに応じた。
「記録するべきものは過去だけではない。未来を照らすすべても、価値に含まれるのです」
船は暗い冬の海を進み、港町の光は遠い背後に沈んでいく。未知の遺跡、封じられた魔物、そして新たな試練。そのすべてが、彼らの前に待ち構えていた。
――冬の潮路の航海は、静かに、しかし確実に進んでいく。
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