第六話「夜に舞う影は、誰のために」
夜明けが、屋敷の古びた窓硝子を、淡い金色に染めていた。
前夜の混乱がまるで夢のように静まり返った広間。今はもう毒の匂いも、恐怖の叫びもない。ただ、少し肌寒い早朝の風が、厚いカーテンの隙間から、音もなく忍び込んでいた。
セイラ=ルクレースは、青いローブの裾を整えながら、屋敷の主——老齢の貴族、アラン=フィランベル卿と向かい合っていた。
「……本当に、あなた方のおかげで、誰一人、命を落とさずに済んだ」
アラン卿の声には、疲れと安堵が滲んでいた。その奥底に、彼が長く押し隠してきた“信仰”の影があった。
「私はずっと、信じていたのだ。魔導師がいたということを。伝承や物語で語られるだけの存在ではなく……本当に、人々の中に、風のように残っていると」
セイラは微笑んだ。仮面の下に隠された瞳が、深く、柔らかく揺れていた。
「あなたの信じた風は、確かに、ここに吹きました」
彼女の傍らで、アルヴァ=フィーニスが肩をすくめた。
「ま、俺らは風ってほど軽やかじゃないけどな。煙に巻くのは得意だけど」
冗談めかして言った彼の目もまた、どこか遠くを見ていた。
屋敷の門前には、既に旅装を整えた三人の姿があった。セイラのローブの肩には星座の刺繍が輝き、アルヴァの弓は新たに手入れされ、鞘の飾り布が朝の光を受けてきらめいていた。
そして──
リリアナ=ノクトが、そっと仮面の紐を結び直した。左半分だけを覆うその白い仮面は、どこかいつもより穏やかな笑みを湛えているようにも見えた。
「私も……連れて行ってもらえる?」
リリアナの声は、踊り子としての華やかさを脱いだ、ひとりの“人間”のものだった。
「過去は消せない。でも、それでも、もう一度ちゃんと……生きてみたい」
セイラは、ゆっくりと頷いた。
「ええ。……あなたの仮面が、そう語っていたわ」
リリアナは目を見開いたが、次の瞬間、小さく笑った。涙ではない。けれど、その笑みは、確かに「何か」が解けたあとの表情だった。
「三人かぁ」
アルヴァが肩を回しながら、ぽつりと呟く。
「風も仮面も、踊るにはちょうどいい人数だな」
誰もツッコまなかった。
けれど、誰も否定もしなかった。
朝の光の中を、三つの影がゆっくりと歩き出す。
旅はまだ、始まったばかりだ。
だが、確かに何かが変わった。
風の行き先が、三つの心を揺らしていた。
──次なる土地へ。風と、仮面と、ともに。
街を出ると、石畳はやがて土の道に変わり、家々の影は田畑と林の向こうに遠ざかっていった。
セイラは旅人としての癖で、自然と前を歩いていた。風を読む目と、星を知る足が、彼女の背中に漂っている。
リリアナはその後ろを、一歩遅れてついていく。舞台衣装だった衣の裾は旅には不向きで、今は借り物の薄布を巻いていたが、それでも彼女の歩き方にはどこか踊りの名残があった。
アルヴァは一番後ろを、気ままな風のように歩いていた。弓を背に、口笛を吹きながら、時おり枝に留まる鳥に語りかけたりもする。
それぞれの歩幅が、ほんの少しずつ、同じリズムを刻み始めていた。森を抜けた丘の上で、セイラが立ち止まり、振り返る。
「少し、休んでいきましょうか」
草の上に腰を下ろすと、リリアナもその隣に静かに座った。仮面はまだ外さないまま、けれどその横顔は以前よりもずっと穏やかだった。
「……ねえ、セイラ」
「なに?」
「私、ずっと……“仮面を外したら、自分じゃなくなる”って思ってたの」
風が草を揺らす。彼女の声もまた、それに紛れてしまいそうなほど小さかった。
「でも、仮面をつけたままでも、自分を変えていけるのかもしれない。あなたたちを見て、そう思った」
セイラは少しの間、何も言わなかった。ただ、その瞳に、光と静けさを宿して、リリアナを見ていた。
「仮面は、隠すためのもの。でも、それだけじゃない」
セイラは言った。
「あなたの仮面が、あなたを守ってくれる日もあるわ。……私の仮面も、ずっと、そうしてくれていた」
リリアナはふっと笑った。まるで風に揺れる花のように。
「ありがとう」
そのとき。
「おーい、感動的なとこ悪いけどよ」
アルヴァが草むらの向こうからひょっこり顔を出す。口に咥えていたのは、熟れかけの木の実だった。
「この先の街道沿い、ちょっと気になる空気がある。物音が妙に少ないんだよな。鳥も鳴かねぇし」
セイラは立ち上がる。
「予兆、ね……」
リリアナも立ち上がった。
仮面の下の表情は見えなかったが、その足取りには、かつてのような逃げ腰はなかった。
アルヴァは肩をすくめる。
「ま、休息はまた今度だな。三人いれば、何が来ても踊って迎えりゃいいさ」
「風は止まらない」
セイラが言った。
「そして、仮面は──その風に、色をつける」
リリアナが応じる。
三人の足が、再び歩き出す。
仮面と仮面、風と風。出会いはまだ浅い。だが、それでも確かに──旅は始まっていた。
遠く、街道の先には、次の町の屋根がぼんやりと見えはじめていた。その町で、また何が待ち受けているのかは、まだ誰も知らない。
けれど、誰の仮面の下にも、それぞれの“理由”があるように。風の行き先もまた、誰かの物語へとつながっていくのだろう。
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