第1章 妻の死と、私の秘密 ②出会いは、幻だったのかもしれない-1
1.2.1 彼女を“女”として見ていた
夕暮れの空は、思っていたよりもずっと淡く、にじんでいた。
渋谷の喧騒を背に、私は小さな公園のベンチに腰を下ろしていた。
舗道の隅でしゃがみ込む子どもたちの声や、遠くから聴こえるアコースティックギターの音色。
すべてが、街の輪郭をやわらかくぼかしていく。
私の膝の上には、いつものようにバッグ。
右手で風に流れる髪を耳にかけ、スマホの画面を眺めるふりをしながら、私はただ、空を見上げていた。
──あの日も、こんな夕方だったような気がする。
気がつけば、記憶の中に沈んでいた。
彼女のことを、初めて見たときのことだ。
それは、ちょうど一年ほど前のことだった。
***
長期出張で、私はその地方都市に滞在していた。
地図で見れば取るに足らない、小さな県庁所在地。
地方支社の応援要員として、営業所と本社をつなぐ調整役──
要するに、事務とクレーム処理の便利屋だった。
その日も、ひと仕事終えて、ホテルに戻る途中だった。
繁華街から少し離れた住宅地に、ぽつんと明かりを灯す小さなスーパー。
チェーン名も知らないその店に、私はふと吸い寄せられるように入った。
何かが欲しかったわけではない。
ただ、空腹をごまかすために何か適当な惣菜でも、という気まぐれだった。
冷蔵棚の前で立ち止まり、私はふと気づいた。
レジの奥に、静かに立っていた女性の存在に。
──彼女だった。
制服のポロシャツは少し大きめで、華奢な肩が泳いでいた。
淡い栗色の髪はひとつに結ばれ、前髪が少しだけ眉にかかっている。
視線を上げたその目が、どこか遠くを見ているようで、けれど確かに「ここ」にいた。
私は、その姿から目を逸らすことができなかった。
無意識のうちに手に取ったのは、サラダとミネラルウォーター。
わざとらしいくらいゆっくりと商品をかごに入れて、私は列の最後尾に並んだ。
レジはふたつあった。
もう一方は空いていたのに、私は並ぶのをやめなかった。
「──いらっしゃいませ」
彼女の声は、思っていたよりも澄んでいた。
口調は控えめで、けれど妙に丁寧だった。
「ポイントカードは……お持ちですか?」
「……いえ、ないです」
それだけの会話だったのに、私は胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
手元の動き。
値札を読み上げる声のトーン。
お釣りを差し出すときの、わずかな指の震え。
そのひとつひとつを、私は観察していた。
まるで、初めて触れる儀式のように、彼女の動作を記憶に刻んでいった。
彼女は、どこか壊れやすそうだった。
けれど、それが「弱さ」とは違った。
透明な硝子の器のように、触れたら割れてしまいそうで、それでも目を離せなかった。
私はそのとき、自分が“男”として彼女を見ていたことを、はっきりと自覚した。
女として。
異性として。
欲望とまでは言わないまでも、明らかに、それは「所有欲」の手前だった。
私は、自分でも気づかないうちに、彼女の中に“理想のかたち”を見ていたのだ。
そう──
ああ、私がずっと望んでいた“誰か”が、ここにいた。
そんな確信が、なぜかあった。
彼女が誰かなんて関係なかった。
どんな性格で、どんな人生を歩んできたのかも、何ひとつ知らないくせに。
それでも私は、彼女を欲しいと思った。
それは、恋や愛だったのかもしれないし、そのどれでもなかったのかもしれない。
ただ、「そうであってほしい」という、私の一方的な幻だったのかもしれない。
でも、その夜から私は、毎日のようにそのスーパーに通い詰めるようになった。
目的は、ひとつだけだった。
──彼女を、もっと知りたかった。
いや、本当は違うのかもしれない。
それがどれほど身勝手で、歪んだ願望だったとしても。
それでも、彼女の姿は、私にとって“救い”のようにさえ思えたのだ。
あの日から、私の中の何かが、確かに変わり始めていた。
***
ベンチに座ったまま、私はゆっくりと目を閉じる。
耳元をかすめる風に、あのスーパーの冷房の匂いが混ざっていた気がして、思わず目を細めた。
──出会いなんて、所詮は偶然の産物だ。
でも、あれが「幻」だったかどうかは、まだわからない。
私が彼女を見つけたのか。
それとも、彼女が、私を見つけたのか。
今となっては、その境界さえ曖昧だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます