第1章 妻の死と、私の秘密 ①女になる朝、男に戻る夜-3


1.1.3 誰でもない自分でいられる場所


渋谷駅のハチ公口を抜けると、眼前に無数の人波が広がった。

交差点の信号が青に変わる。


人々が一斉に歩き出すその流れに、私──

“聖菜”も、自然に足を踏み入れた。



肩がぶつかりそうでぶつからない。

香水やタバコ、汗の匂いが入り混じる雑踏のなかで、私はただ一人分の存在として歩いていく。

誰も私を気に留めない。

誰にも気づかれない。

それが、妙に心地よかった。


誰でもない自分でいられる。

そんな自由が、ここにはある。


ファストファッションの店に入り、スカートの裾を指先でつまんで鏡にあてがう。

ハンガーのまま少し体に重ねてみて、丈感を確かめるふりをする。

買う気はない。


ただ“聖菜”として、ここにいるという実感を得たかった。


隣に立つ女性二人が、鏡を見ながら談笑している。

一人はベージュのニット、もう一人はカーキのジャケット。

会話の内容は耳に入ってこない。


ただその輪の中に、私はいない。


──いられるわけがない。



何も求めていないふりをして、私は少しずつ離れる。

誰かに近づくこともなく、誰にも踏み込ませないように。



私は歩く。

明治通りを越え、喧騒を抜け、表参道方面へ。

人の波は絶え間なく、まるで自分の存在すらも押し流してくれるようだった。

それが、少しだけ救いだった。


私は誰かになりたいわけじゃない。

「女になりたい」と願ったことは、一度もない。


けれど、今のこの姿は、明らかに“女”の格好をしている。

口紅を引き、ヒールを履き、香りを纏い、笑みの作り方まで計算して。

この見た目が私の本質なのかと問われれば、答えは「いいえ」だ。


ではなぜ、こうして歩いているのか。

私は、誰なんだろう。


小さな公園のベンチに腰を下ろし、膝の上にバッグを抱える。

右手で髪を耳にかけながら、スマホを取り出すふりをして、ただ目の前の景色を見つめる。

行き交う人々は、皆どこかへ向かっていた。

仕事、買い物、デート、帰宅。

誰もが「誰か」であろうとしているように見えた。


それに比べて、私は──


何者でもない。


「誰かに見てほしい」

そんな願望が確かにある。

服を選ぶときも、髪を整えるときも、私は「見られる」ことを意識している。

でも同時に、「誰にも知られたくない」という恐怖がある。

正体を暴かれることへの怯え。

“聖菜”という存在が、誰かに「滑稽だ」と笑われることへの恐怖。


それは矛盾している。

見てほしいのに、見られたくない。

知ってほしいのに、知られたくない。


私は“女装”という言葉が、ずっとしっくりこなかった。

“性”のためではなかった。

性的な興奮やフェティッシュのために始めたわけではない。

私にとってこれは、“別人になりきること”の延長だった。


自分ではない誰かを演じることでしか、私は現実から逃れられなかった。


男としての私──

間宮誠司を背負ったままでは、息が詰まってしまう。


ならばいっそ、誰でもない存在として生きていたい。

そう思った。


けれど、その「誰でもない」私は、

結局、「誰にもなれない」という空虚にたどり着く。


誰にも愛されず、誰にも理解されないこと。

そこにあるのは、自由じゃない。

ただの孤独だ。


私は立ち上がる。

夕方の光が、アスファルトに長い影を落とし始めていた。

髪が風に揺れる。

そのたびに、私は“聖菜”という仮面のなかに、もうひとりの自分を確かめる。


この街のざわめきに紛れていれば、私は私でいられる。

そう思いたかった。

それが、たとえどれほど薄っぺらい逃避であっても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る