風鈴の女

異端者

『風鈴の女』本文

 チリン。


 どこかで風鈴ふうりんの鳴る音がした。

 どこからだろう。僕は大学からの帰路、足を止めた。

 近年では、風鈴を吊るす家庭はめっきり少なくなった。夏場は密閉してエアコンを効かせた家に引きこもるのが、一般家庭でも常識となった。

 足元のアスファルトは熱く、人が歩くには過酷な環境だった。この国の道路はつくづく車優先だと現実を突きつけられる。

 照り付ける日差しは暑く、シャツは汗でべったりと貼り付いている。

 悠長に音源を特定しているのも面倒だ。そう思って再び歩き出した。

 僕は安アパートにようやくたどり着くと、もっさりとした動きで鍵を開けた。

 こんなオンボロでも、エアコンは付いているのがせめてもの救いだ。

 僕は部屋に入り、エアコンを最大限に効かすと、ベッドに倒れ込んだ。

 大学からの課題もあったが、少し休まないとそれどころではなかった。

 僕はぼんやりと天井を見上げながら、あの風鈴ののことを思い出していた。


 風鈴の女。


 遠く離れた実家ではその女のことをそう呼んでいた。

 そこでは風もない時に、風鈴が鳴ることがあった。その時に「居る」のだという。

 もっとも、僕自身は一度もその姿を見たことがない。それどころか家族の誰一人、見たことがない。

 祖母が知人の「見える人」に何気なく尋ねたところ、そういう時にはその女が居ると言ったのだそうだ。

 その女は着物姿で髪を結っている、古式こしきゆかしい幽霊だそうだ。

 時折、女は自分の存在を誇示こじするかのように風鈴を鳴らす。

 しかし、それ以上のことは何も知らない。


 なぜ、実家に出るのか?

 なぜ、風鈴でなければならないのか?

 そもそも、その女は何者なのか?


 祖母のその知人は、残念ながらそこまで分かる人間ではなかったらしい。もっと高名な霊能者を紹介しようかとも言われたが、断ったそうだ。

「生きとるもんには生きとるもんの、死んだもんには死んだもんの世界がある」

 僕が理由を聞くとそう答えた。

 要するに、祖母は生者の世界と死者の世界は別だと考えているのだろう。

 だが、全く信心がなかったかといえばそうでもない。むしろ祖父の墓参りは誰よりもしていただろう。

 今思うと、あれは祖母なりのうしなった者への決別の意識だったのかもしれない。亡くなった人間は亡くなったものとして、折り合いを付けなければならない。

 風鈴の女――もしかしたらそんな幽霊も、案外普通に居るのかもしれない。多くの人が気付いていないだけで。

 まあ、居ても何も変わらない……か。僕は冷風を送ってくるエアコンを横目で見た。部屋の生暖かい空気が少し冷えてきた気がしていた。

 それはそれとして、今は自分のすべきことをしよう。僕は起き上がると、PCを起動して書きかけのレポートのファイルを開いた。

 いつかは、その問題に直面する時が来るのかもしれない。そうだとしても、考えるのはその時で良い。


 チリン。


 どこか遠くで、風鈴の鳴る音が聞こえた気がした。

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