第10話「沈黙の森と『音声入力』」

 ループする廃村のバグを修正してから、俺たちの旅はさらに過酷さを増していた。空は常に灰色の雲に覆われ、植物はねじれた奇妙な形のものばかりになっていく。世界の「正常」な部分が、悲鳴を上げているのが分かった。


「タクミさん、空気が……重い、です」


 リリアが不安そうに呟く。彼女の言う通り、この一帯は魔素の濃度が異常に高く、濃霧のように体にまとわりついてくる。普通の人間なら、ここにいるだけで精神に変調をきたすだろう。


 やがて俺たちの前に、不気味なほど静まり返った森が姿を現した。木々はすべて黒く、葉の一枚もつけていない。まるで、森全体が死んでいるかのようだった。


 【マップ】によれば、この森を抜けるのが『神々の墓場』への最短ルートだ。俺たちは顔を見合わせ、覚悟を決めて足を踏み入れた。


 森に入った瞬間、世界から「音」が消えた。


 風で木々が揺れる音も、地面を踏みしめる自分たちの足音も、すぐ隣を歩くリリアの呼吸さえも聞こえない。完全な無音の世界。聴覚が奪われたような錯覚に、強烈な不安が襲いかかる。


「リリア!」


 俺は叫んだが、自分の声帯が震える感覚はあるのに、声は全く響かない。リリアは俺の口の動きを見て、何事かと問いかけるように首を傾げた。これも、このエリア一帯にかかった、強力なバグの一種らしかった。


 これでは意思の疎通ができない。そして、もっと深刻な問題があった。リリアの治癒魔法は、詠唱が必要だ。声が出せなければ、彼女はこの森の中では魔法を使えない。


 どうする?


 俺は焦る気持ちを抑え、スマホを取り出した。何か使えるアプリは……。そこで、ホーム画面の隅に、これまで一度も使ったことのないアプリがあることに気づいた。マイクのアイコンが表示された、【メモ(音声入力)】アプリだ。


 俺はアプリを起動し、リリアに見えるように画面を向け、口を動かして「これに話しかけてみてくれ」と伝えた。リリアは戸惑いながらも、画面に向かって何かを囁く。すると、彼女が話した言葉が、リアルタイムで画面にテキストとして表示された。


『聞こえますか……?』

「……成功だ!」


 俺は声なく、口の動きだけでそう伝えた。


 この森のバグは、あくまで空気の振動という『音の伝播』を無効化するだけ。俺のスマホは、物理的なマイクで音を拾っているんじゃない。管理者ツールとして、俺やリリアが「話す」という行動そのものから、直接『音声データ』を読み取っているんだ。だから、音が伝わらないこの世界でも、問題なく入力できる。


 この事実に気づき、俺は改めてスマホのチート性能に戦慄した。安堵の色を浮かべるリリアに、俺はテキスト入力でメッセージを打ち込む。


『このアプリで会話しよう。それと、魔法の詠唱も、このアプリに向かってやれば、テキストとして魔法陣に変換できないか?』


 俺の提案に、リリアは目を見開いて頷いた。彼女は杖を構え、スマホの画面に向かって、治癒魔法の詠唱を囁き始める。すると、画面に表示されたテキストが淡い光を放ち、リリアの杖の先に、小さな光の球――治癒魔法の力が宿った。


「やったな!」


 無音の森でも魔法が使える。これで、ひとまずの安全は確保できた。俺たちはスマホの画面で会話しながら、慎重に森の奥へと進んでいく。


 その時だった。


 無音の世界で、木々の間から、影のようなモンスターが複数、音もなく滑るように現れた。狼に似ているが、目がなく、代わりに大きな耳が絶えず動いている。音のない世界に適応し、空気の振動で獲物を狩るモンスター、『サイレント・ウルフ』だ。


 俺はすぐさま【AR】を起動し、敵のHPと弱点を表示させる。だが、数は6匹。リリアを守りながらでは分が悪い。


 俺はリリアにスマホの画面を見せる。


『俺が引きつける。リリアは魔法の準備を!』


 俺はミスリルの短剣を抜き、一体に斬りかかった。だが、敵の動きは速く、致命傷を与えられない。すぐさま別の個体が、死角から俺に襲いかかってきた。


 その瞬間、俺は【アイテムボックス】から、以前収納しておいた「大きな岩」を、敵集団のど真ん中に「取り出した」。


 ドンッ! という衝撃だけが地面を伝わる。音はないが、突然現れた障害物に、狼たちの動きが一瞬だけ止まった。


 その隙を、リリアは見逃さなかった。


 彼女はスマホに詠唱した魔法――土の魔法『アース・スパイク』を発動させる。地面から鋭い岩の槍が何本も突き出し、狼たちの体を正確に貫いた。


 残った一匹が、形勢不利と見て逃げ出そうとする。


 俺はそれを見ながら、【メモ】アプリのもう一つの機能――『テキスト読み上げ(Text-to-Speech)』を試してみることにした。


 テキスト入力画面に、シンプルに「爆ぜろ」と打ち込み、出力を最大にする。そして、スマホのスピーカーを逃げる狼に向け、再生ボタンを押した。


『爆ぜろ』


 スマホから放たれたのは、音ではなかった。


 それは、意味と指向性を持った、純粋な魔力の「声」。物理的な音波ではない、概念的な衝撃が狼を襲い、その体を内側から木っ端微塵に吹き飛ばした。


「……やりすぎたか」


 俺は自分のスマホを見て、少しだけ引いた。この機能は、使いようによってはとんでもない武器になる。


 静寂を取り戻した森を抜け、俺たちはついにその出口にたどり着いた。


 そして、目の前に広がる光景に、言葉を失った。


 森の先には、巨大な断崖絶壁が、天を衝くようにそそり立っていた。表面はガラスのように滑らかで、人の手で登ることは不可能に見える。あれが、『神々の墓場』へと続く、最後の障壁に違いなかった。


 そして、その崖の麓に、古びたキャンプの跡があるのを、俺は見つけた。燃え尽きた焚き火、破れたテント、そして、地面に落ちた一冊の日記帳。


 俺は日記帳を拾い上げ、その表紙に書かれた文字を読んだ。そこには、インクが滲み、かすれた文字でこう記されていた。


『バグを報告する。この世界は、もはや手遅れだ』

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