霊階
@O__saki
『0階』
僕は今、エレベーターにいる。
4月からの新生活で、初めての一人きりの生活に心を躍らせていた。
しかし、そのような心持ちは、すでに無くなっていた。
掃除、洗濯、炊事──。
僕が家事だと思っていたものは、ただの氷山の一角でしかないことを知った。
豚肉とキャベツが入る予定の鞄を片手に提げる自分を、扉の前の鏡で眺めながら、4階から地上へ運ばれるのを待つ。
──待つといえば、去年の大晦日の夜、年内に受験を終えた3人で、神社に向かった。
その時に、奇妙な体験をした。
年明けの直前。
神社はごった返していて、誰かが「じゅう」と声を上げた。初めは、人々の喧騒の中で響いている雑音の一つであった。しかし、「なな」の辺りで纏まった声となり、「ご」の声が空に響く頃には、その場のほとんど全員が声を上げていた。
「馬鹿共が騒いでやがる」
3人の中で最も頭の良い泰平が鼻で笑っていたが、「さん、に、いち」と微かな声で呟いていた事を、僕は知ってる。
カウントダウンの後、人々は自然と列をつくり、ぞろぞろと鳥居をくぐり、順番に鈴を鳴らした。
橋口 泰平『参拝が終わったらおみくじ売り場集合で』
泰平が3人のグループLINEで発言した。神社に"おみくじ売り場"なるものは一つしかなく、全員がそれに同意した。
──しかし、どれだけ待っても、そこには僕しか訪れなかった。
hero『@颯太 あとはお前だけだゾ〜』
ヒロが急かす。"颯太"とは僕だ。僕はもう集合場所に居る。
T.Sota『おみくじ売り場よね?もう着いとるよ』
hero『嘘つけーーい』
T.Sota『まじでおるて』
T.Sota『周り誰も居らんで』
橋口 泰平『ホントにおみくじ売り場か?そこ』
橋口 泰平『とりあえず神社出て目の前のコンビニ前に再集合頼むわ』
───このとき、僕は違和感を覚えた。
そう、違和感を覚えた。
エレベーターが、なかなか地上に着かない。
確かに動いてる。軽い浮遊感と共に、下に向かっているのだ。
成人男性5人がギリギリ入る位の大きさの箱。
昼光色の不気味な明かりが灯されている箱。
その箱は、降り続けている。
ボタンの上の階数は、『0』を表示していた。
「──0?」
思わず口に出た。
地下一階のことだろうか。しかし、そうならば「B1」と表示されるはずではないだろうか。
───扉が開いた。
そこは、いつものエントランスだった。
自動ドアの先は、何の変哲もない、いつもの地上であった。
───疲れているんだ。
そう思うことにした。
いつものスーパー。道順も、街並みも、何一つ変わっていない。
けれど、違和感はすぐに訪れた。
自動ドアは無人でも開いた。店内にはあのエレベーターと同じ昼光色の、不気味な照明が灯っていていた。冷蔵ケースの中は、いつも通り商品が並んでいる。
しかし──
誰も、いなかった。
客も、店員さえも。
音が無いのだ。
店内のBGMも、カートの車輪が転がる音も、主婦たちが立ち話をする声すら聞こえない。
ただ、自分の足音だけがそこで響いていた。
「すみませーん……」
声をかけてみたが、返事はない。
不気味なほど整った売り場。
まるで、誰かが完璧に整えてから、人だけを抜き出したかのような静けさ。
──僕はこの感覚を、知っている。
あのときも、そうだった。
神社で、僕だけが集合場所に現れたとき。
あの、おみくじ売り場の前で。
あれほど人で賑わっていた神社で、急に誰の姿も見えなくなっていた。
泰平のメッセージを思い出す。
橋口 泰平『ホントにおみくじ売り場か?そこ』
LINEでは、あの二人は「そこにいない」と言った。
でも、僕は確かに、指定された「おみくじ売り場」にいたのだ。
その時と、同じだ。
同じ場所にいて、同じ景色を見ているはずだった。
僕だけが、別の世界に居たような。
僕だけが、別の階層に降りたような。
そんな感覚。
さっきのエレベーターの『0階』と何か関係があるのだろうか。
僕は自動ドアをもう一度くぐった。
外は鉛のような色をしていて、完全な無音だ。
──確信した。
こうなったのは、間違いなく『0階』の影響だ。
そう思った僕はすぐにマンションへと足を運び、『4階』のボタンを押した。
扉が閉まり、ふと、後ろの鏡を見る。
エレベーターの鏡に写る"彼"の姿は、歯茎が剥き出しの、真顔に笑顔を無理やり貼り付けたような表情をしていた。
軽い浮遊感が、僕の足裏から背骨を伝わり、脳に伝わってくる。
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